Nicotto Town


ふぉーすがともにあらんことを、あなたにも。


心なんて、ない。

心なんて、ない。

この一見難解なロジックを解くのは、
大きく物事を俯瞰する、目です。

心なんて、ない というのは
例えば、一人の視点では
心がある(と感じられる)ということです。

自分だけの視点では、煩悩が先行します。
ということは、自分の欲望に沿った行動しかできず、

本当に心から望む選択はなかなかできないのです。

欲望に捉われた生活なんて、嫌でしょ?

自分が心から望むものが手に入っていればいいですが、
そうならずに、かつ煩悩が欲するものを求め彷徨い歩く、
というのは、本来望むべき生活ではないのではないでしょうか。

という話をする前に、
心なんて、ないというロジックの解体からしてみたいと
思います。


心なんて、ないというのは、
大きな視点を持った場合に

すべてが一緒であるため
一人の心というものは存在しない、ということです。

苫米地英人氏の言葉で言うと、
「心を指せと言われても
どのことか正確には言えない」

というのが「心なんて、ない」の根拠になっています。

もし、大きな視点を持つと
一人の心なんてものは
どうでもよくなります。

すべてが一緒だと感じられるなら、
その内側に内包される全体の関係性と、

さらには大きく広がる世界・宇宙の関係性を
感じられるはずです。

大きな視点を持つというのは、
例えば世界・宇宙単位の視点を持つことです。

人間が明らかにした範囲なら、
地球系、地球惑星系でもいいかもしれません。

月とか、付近の小惑星を包摂する感じです。

その単位の視点を持つのなら、
世界のささやかな出来事や関係性は
どうでもよくなります。

世界・宇宙の出来事は
自分の心が生み出した出来事です。

最終的に、すべて幻想なのですが
「心なんて、ない」の話をしているので

ここでは、宇宙はあるものとして
話を進めています。

一重に、心なんて、ないというのは
宇宙全体を見渡した時に、

心と呼べるものがない、
ということにあります。

つまり、自分の心と呼べるものなんて、
ないということです。

もし、宇宙全体を見渡すのなら
すべての物事が連続性をもって感じられるはず。

その関係性の中で、
「ここは、自分!」というものが
果たしてあるでしょうか。

おそらく、指せないと思います。

だって、全部が関係性を持っているから。

宇宙の中で、「ここは、自分」というのが
指せない以上、

自分を探しても仕方がないのです。

ほぼ確実に、自分を探すのは無理です。
心なんて、ないのです。

だって、宇宙の中で、ここは自分というものが
指せないから。

自分と関係性がある概念の中で、
自分以外のものを心と呼ぶのなら

まだ考える余地はあります。

例えば、自我に関わる

住んでいる場所、過去の情報などを
心と呼ぶのなら、

自分を定義できる可能性があります。

ただ、ここで話しているのは
自分を定義する「自我」のことではなく、

あくまで、心はない という話です。

もっとも、もとより自我などありませんが。
心と同じく、個々を確定できる要素はないからです。

自分と関係のある概念で、
自分を定義しようとしても

個人は確定できません。

なぜなら、宇宙ではあらゆる概念が
関係性をもって存在しているので

これだけが、個人というのは
決められないからです。

よって、自我もなければ
心もありません。

あるのは、自分の中の宇宙、
その中の関係性だけです。


心なんて、ありません。

ただ、自分の宇宙の中でなら、
関係性を作ることができます。

まず、心なんて、ないと思う。

それから、自分の宇宙の中での
関係性を見つめることが、

自分がなんなのかを探す手がかりになります。

(自分探しは意味がありませんが、
自分がなんなのかを決めることは

今後のためや将来のためには
有益なこととなります。)

重要なのは、自分は自分で決められる
ということです。

今後も、後先も関係性は、
宇宙の中で自由に決められるということです。

関係性が自由に決められるのなら、
自分の思うような姿を描けるはずです。

#日記広場:20代

アバター
2014/01/13 22:02
そうですねbおっしゃる通りだと思います

一番最後の部分ですが、

前者の発想は、
無の発想とも、行き過ぎた空とも言えますね^^;

それだったら、後者の発想は
かなり、前向きな自由の発想だと思いますb

これは、自由の裏返しが何もしなくていい、
というところにあるのと共通点があります。

やりすぎはインフレを招くから、ですが
要は、自由を極めるとなると

なにもしなくてもいい、という領域が
必ず発生してしまうのです。

無駄に使うぐらいなら、
消耗しないほうがいい、
というわけですね^^;

ただ、人間は生きている以上
何かを残さなければなりませんから

やはり有効に使ったほうがいいわけです。

大きな目標を設定することで、
そのエネルギーを有効活用することができます。


自由っていうのは、
何事にも束縛されないことを
意味しています。

もしそうなら、
自分のことは自分で選んでいかないと
いけないのですね。

なので、自由はすべて自己責任が前提になるわけです。

自己責任があるのなら、
なにをやってもいい(なにもしなくてもいい)に

機能が発生します。

つまり、役割を設定すれば
何かやることができるわけです。


なにもしなくていい、というのは
ある意味自由の裏返しですが、

そこにさらに機能(役割)を設定できれば
さらに有効にエネルギーを使えるわけです。

少なくとも、人間に使える時間は
限られていますから^^;
アバター
2014/01/13 21:34
ありがとうございます^^

関係ないですが、これだけの文章がサラッとまとまるのがうらやましいです…



煩悩を大きくして、プラスにも使えるんですね。

でもコントロールはやっぱり難しかったです…。

ラベリングっていうのがあるんですね。

さっきから同じ事ばっかり考えてるなぁと思ったとき、
これは考えても仕方ない(解決しない)こと、後で考えればいいこと、
というように整理することはありましたけど、
それにちょっと近いような気がします。

T or N のほうが分かりやすくて簡単そうですが。



ふと思いました。

"何もしなくてもいい"から、
"生きてる必要はない"になると危険ですが、

"何もしなくてもいい"なら、
"何をして生きてもいい"と思えたら、
前向きになれそうですね。
アバター
2014/01/12 09:45
(→空観)

あってもいいけど、
それだけではやっていけませんよね^^;

最低限必要なことは必要なわけです。
煩悩もある程度ないと困るというわけです。

ただ、煩悩に振り回されると、
自分のコントロールができなくなります。

なので、必要に応じて、
自分の望むものを手に入れる必要がある
のですねb

空のような考え方も、
ある意味通るべき考え方だったのかも
しれませんね~

だって、まったくそれを知らなかったら
いつもでも煩悩に束縛され続けますもん^^;

必要に応じて、自分の欲しいものは
手に入れるということですねb

もちろん、自分をコントロールする方法も
ある程度必要だというわけです^^;


煩悩には、ラべリングがいい、
って書いてありましたよb

まず、自分にとって必要なものは
T(True)

いらないものは
N,Nil(不要・意味がない、の意)

雑念が出てきたら
D(デリュージョン、妄想)

とラべリングしますb

身の回りのものや物事で
やります。

これをやっていくと、
最終的になにが自分に必要なものなのか
が分かりますb

最終的には、Tだけが残るのが
理想ですねb

身の回りをTで埋めてしまえば、
それだけ幸せだ、ということです。

ラべリングを使えば、
簡単に身辺整理ができますb

煩悩をコントロールするひとつの方法ですねb

あとは、止観とかも有効だ、という話です^^;
アバター
2014/01/12 09:34
ぜひぜひ いらしてください^^

本屋さんで探すのもいいですが、
苫米地氏の本はamazonで割と安く手に入ることも多い

(音源付きのやつは新品のほうがいいけど
紙だけなら中古でも安く手に入りますb

それに圧倒的に本の数が多いので^^;)

何冊か買うなら中古で安く買われることをおすすめします^^


実は、苫米地氏は中観派(仏教でそういう派があるのです)
も否定しています。

内容は詳しく覚えていませんが、

youtubeで見れる「博士の異常な対談」(水道橋博士と宮崎哲弥と一緒に出てるやつです~)
2008年ぐらいのやつだったかな、

検索すると出てくると思いますが
そことか、

あとUstreamで放送されたやつ
(たしか、「仏教について語る」だったと思いますが)

の中で詳しく言っていますb

なんかの理由で中観派も否定してた気がしますが、
(苫米地氏はたぶん釈迦派とか空派って言ってます^^;)

まぁ、要は著書のなかでたびたび出てくることですb

(中観の考え方はたしか「生と死の取り扱い説明書」だったかな、
最後のほうにでてきます)

一番いい解決策は、
目標を立てることですねb

とてつもなく大きな目標を立てることで、
すべてのことが意味のあることになる、というものです。


煩悩に関しては全くおっしゃるとおりですね^^;

煩悩はある程度必要なことです。

苫米地氏の言葉で言うと、
「煩悩はほどほどに。でも大きく!」

でしたねb

煩悩がないと、人間は滅びます。

食欲がないと、食べていけませんし
性欲がないと、子孫を残せませんからねb

だから、煩悩はあってもいいのですが
それが行き過ぎになると、バランスを崩す、というものですb

逆に、煩悩を極端にまで大きくしてしまえば、
すべての人がその分野で幸せになるような
ことを思いつけるはずです。

なので、煩悩はほどほどに、でも大きく、
ということですねb

仰られた通り
自己コントロールができればいいわけです。

煩悩は止観でコントロールできますねb
いわゆる止めて、観る方法です。


「なんにもしなくていいや」のような境地は、
空のようなものですねb

実際、そういうのがないと
人類はどこまでも行き過ぎてしまいます。

それはそれでいいのですねb
アバター
2014/01/12 01:28
丁寧にお返事ありがとうございますm(_ _)m


確かに危険な考えだと思います。
実際、"なんにもしなくていいや"に近い考えを通りましたもの;;


振り回されていたのは、煩悩でしょうね。
その煩悩が必要なものとは思えませんでしたが、必要だとしたらどんな意味があるのか、
感情を機能と解釈して、理解していければうまく利用して自己コントロール
できるかな、と思っていたんです。



中観の考え方、いいですね^^。

人は皆、何か役目や使命を持って生まれてくる
とか言われても納得できませんが、
"どうせ同じ生きるなら"って自分が決めることなら、
役目だとか使命があってもいいかもしれないと思えます。

せっかく紹介していただいたし、本屋さんで苫米地さんの本探してみようかな。



alfonceさんのブログ、
普段考えないようなことを考えさせてくれるので、
それと考えたことがあっても
別の視点での解釈されていたりするので、
読んでいて楽しいです。


本当は文章あまり得意じゃないので
そんなにコメントはできないと思いますが、
ご迷惑でなければ時々ブログを読みにお邪魔したいです^^
アバター
2014/01/08 22:11
そうですね、

心=脳=宇宙だと思っていただければいいと思いますb

一人の宇宙は、一人の脳が生み出しているのであって
ひとりひとりに宇宙があります。

また、その時起こった感情あるいは心理的現象を心と
呼んでいるわけです。

おっしゃる通り、
感情や心はもともと脳が生み出したものです。

生得的に脳細胞のようなところに
恐怖を感じる場所があるくらいですから、

感情や心は脳内の現象です。

そういった現象は脳機能科学(機能脳科学)の
専門ですので、

専門の本を読まれるとより分かると思いますよb

その手の本では、苫米地英人氏の著書が一番
分かりやすいかと思います。

(参考までに:苫米地英人、宇宙を語る(本))

そこまで複雑に思考に影響するのですから、
感情も脳の機能です。

でも、感情を脳の機能だと呼んでしまうと、
もうこの世界もない、と言っているようなものになってしまいます。

それでは、悟り過ぎですよね^^;

あるともいえるし、ないともいえる状態を
空(くう)と呼びます。

そして、この世界にある一定の役割を見出すのが
仮観(けがん)で、

空のような観方は、空観(くうがん)と呼びます。

苫米地氏が著書で言っているのは、
その中間の見方で、

中観というものです。

つまり、あるともいえるし、ないともいえる(=この世は幻想)という
考え方のもと、

じゃぁ幻想でも一応役割を見出して生きましょう、
というのが中観の考え方で

空を極めてしまうと行き過ぎになるわけです。
つまり、あるともいえるし、ないともいえるなら

なんにもしなくてでもいいや、になります。

それでは生活できませんよね?^^;

最低限、食べることや身の回りの家事が必要なわけです。


おそらく、感情に振り回される、というのは
自分の煩悩もありますねb

それから、精神的な「不安」の要素もあるでしょう。

どちらにしろ、

自分の宇宙を生み出しているのは自分の心、
つまり、その考えることをやめてしまえば、

心配や不安はなくなるわけです。

もちろん、まったくいきなり考えることをやめてしまえば、
さっき言った行き過ぎのように

生活できなくなるかも~ と思うかもしれません。

ただ、ある程度の統合された知識を学べば
(=宇宙を理解すれば)

それも自ずから可能なことだと
思いますが。
アバター
2014/01/08 21:47
こんばんは^^
数日前にサークル広場からお邪魔してました。


「心なんてない」は一時期ずっと考えてましたが、
宇宙の中に、一人の人間の心を探すという発想にはいたりませんでした。

私が考えたのは、宇宙のような壮大なスケールとは真逆です。
心や感情は、もともと生きるためのものだと思うんです。
例えば恐怖は、痛みや危険を覚えて、次からはそれに近づいてはいけないという危険信号です。
一つ一つの感情は、そういう自分を守るための何かしらの意味があって、成長するにつれて
色んな条件が重なってどんどん複雑になっていくのではないでしょうか。

生まれたばかりの子供の感情は"喜"と"哀"しかないそうです。

そう考えると、すべての感情はもとをただせば、人間の持つ自己防衛機能ではないかと。

専門家でもないので、まったく根拠はありませんが…。
そうなると結局のところ、心=脳 になるのかもしれませんね。


感情に振り回されて"心なんてなくなればいいのに"と本気で思っていたころ、
こんなことばかり考えてました。

突然お邪魔して勝手に語ってすみません・・・
アバター
2014/01/04 15:04
そうですね^^;

心なんて、ない の心は

「いろいろ思うこと」の心だと思います。

いろいろ考えること(論理的に)の心は
脳そのものなので、

(脳を否定するのは難しいと思います^^;
この世が幻想というのも脳によって生み出された世界であるから、
というのが前提になっています)

ここではいろいろ思ったり、迷うこと の心をマインド、として

いろいろ考えたり、考察すること(論理的に) の心は
脳の働きだと思っていただければ分かりやすいかと思います。

ただ、認知科学での一般認識では
脳と心は同じもの扱い、ということらしいので

思考を分析する上での
見方の違い、ですねb

脳と捉えたほうが
より分析しやすいことから

心はない、というのも
脳の働きの結果である

と考えれば分かりやすいかと思います^^;
アバター
2014/01/04 14:27
初めまして。広場からです。
あまりにも興味深い内容だったので
暫く読みながら考察してしまいました。

前半部分ロジックの解体前までの考えについては
概ね同意です。

しかし後半部分の話を読み、考えれば考える程
『心なんてない』と考えるその心理が既に
心として確立されているのではないか。など考えてしまいます。
なかなか奥深いですね。
良いテーマを頂きました。ありがとうございます^^




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