桜花に杯を捧ぐ
- カテゴリ:自作小説
- 2015/05/11 16:55:33
ぱん
ぱん
ぱん
「・・・」
鮎川兵庫は、この竹刀の音をこよなく愛している。
「ま、まだまだぁ!」
兄弟子・・・いや、弟弟子にまで打ち込みを許してしまう、あの筋の良く無い若者の姿も。
かつて剣客であった自分が竹刀稽古を好ましく思うのは理の如くだが、後者の方に頬が弛むのは何故だろうと、彼は杖に身を預けつつ考えていた。
「今日も、御覧になられていましたか。」
「む。」
ひょい、と顔を覗かせた若者に、何時の間にそんな時が流れたかと、多少困惑する。
「もう、稽古の終わる刻限かね。」
「はい。」
「儂も耄碌した物だ。」
「何故、そう思われます。」
「時を忘れていた。」
「何、若輩の我が身にもその程度の事は御座います。」
「・・・」
この若者は知らぬのだ。
下腹のしこり。
時に痛む背中。
医者の診立て。
『来年の桜は見れぬ、か・・・』
そして。
もう一つ・・・
「ところで、甘い物はお好きですか?」
「喰わんでも無い。」
「白玉の旨い甘味屋を見付けたのです。」
「・・・」
「そこで是非に、剣の講釈等、お聞かせ願いたい。」
「・・・」
兵庫の腹は、重く痛み。
多分に杖に縋る様を気取らせぬよう、先を行く若者の背中を追った。
「それでですね。」
白玉をぱくぱくと頬張りつつ、若者は語り続ける。
「胴が来ると思えば面を打たれ、面に備えれば小手を取られる。」
「・・・」
「それでは先手必勝とばかりに打ち掛かれば、やはり抜き胴を決められてしまう。一体、何が悪いのか。」
「・・・」
「いやいや、元の手筋が悪いのは承知しておりますとも。剣の達人であった父には似ず、母の血を濃く継いでしまったんでしょうなぁ。」
「・・・」
「やはり、御加減が優れませぬか。」
「・・・ん?」
若者の面差しをちらりと見遣り、成る程母似だな、と思い耽っていた所、突然話の風向きが変わった物で、兵庫はちょいと眉を吊り上げた。
「食が進んでおいでではありませんから。」
「・・・」
確かに白玉を匙に乗せたまま、それを口にも運んでいない。
「よう、気付いたの。」
「まぁ、それは。」
「それじゃよ。」
「・・・は?」
「相対した者を良く観察する事。何が来るかと一か八か、では無く、姿勢、太刀先、視線、そこから読み取る、のだ。」
「成る程!」
若者はぽん、と左の掌に右の拳を置く。
「いや、御指導有り難く。・・・しかし。」
「ん?」
「それはそれとして、御加減は。」
「・・・」
誤魔化す事が出来なかった事に唇を歪め、無理にでも白玉を含もうかと思った矢先。
「う・・・!」
「い、如何なさいました!?」
刺し込む痛み。
浮く脂汗。
『ああ。ここまでのようじゃ。』
兵庫はそれを覚った。
「だ、誰ぞ!誰ぞ医者を!」
「騒ぐな。」
「・・・!」
それは呟きに似た細やかな声だったが、叱咤と言うには充分な意味を持つ低い響きであった。
「表へ、出やれ。」
「は・・・しかし・・・」
「出やれ。」
「・・・」
有無を言わせぬその物言いに、若者は兵庫の身体を支えつつ店を出た。
そして。
「構えよ。」
若者の手を振り払った兵庫は、一間程離れて若者に命じる。
「・・・」
若者はそれに従い、中段に構える。
「来い。」
「それは・・・」
立つのもやっとと思しき兵庫に対し、若者の戸惑いは当然と言えたろう。
が。
「来い。」
兵庫はただ、それだけを重ねる。
「・・・」
若者の迷いはやがて消え。
気を取り直し。
「やあぁっ!」
気合い一閃。
そのまま兵庫の胴を狙って・・・
と。
「う!?」
若者の動きが、止まった。
その喉元には。
兵庫の杖が、ぴたりと決まっている。
が。
それも、刹那な一時。
「ふふ・・・」
「あっ!」
兵庫は含んだ笑いの後、がくりと膝を崩す。
若者は駆け込み、その身を抱き止める。
「やはり、お前は・・・筋は悪くとも見る目はある。」
「・・・」
「儂の杖の長さを、見切って居ったな。」
「・・・」
「だが、な。」
震える手で、兵庫は若者に杖を示した。
「・・・仕掛け杖、じゃ。」
それは、先端と思われた場所から、飛び出したと思しき一回り小さい身が八寸程伸びている。
「これは・・・!」
目を丸くする若者に、兵庫は愉快そうにふふふ、と笑う。
しかし。
「流石に虚を衝かれまして御座います鮎川殿!」
「何・・・」
今度は、兵庫がその眼を見開く番だった。
「御主・・・儂の名を・・・」
「存じているからこそ、お尋ね致しませんでした。」
「・・・」
その若者が最初から気付いていたのだ、と言う事に、兵庫の笑みは苦い物に変わった。
「では、あの事も知って居ろう。」
「・・・」
「そう。今のが。」
兵庫は、ふうと吐く息吹きと共に。
「”お前の父を屠った技”じゃ。」
それを、語った。
「・・・」
「まぁ、あの時は・・・木刀の先に針、であったが、な。」
「・・・」
「そうよ。儂は、卑怯者だ。存分に罵るが良いぞ。」
「いいえ。」
「ん?」
「鮎川殿の秘術、しかと見極めました。」
「・・・御主。」
「御教授、有り難く。」
「・・・ふ。」
兵庫は、再び口許に浮かんだ笑みの、その意味に自ら気付いた。
「・・・儂の負けじゃ。」
「鮎川殿?」
「奴め、真っ直ぐな良い息子を遺しおって。」
「鮎川殿・・・」
「生涯独り身の儂は、その点に於いて・・・負け・・・」
「・・・鮎川殿?」
がくり、と。
兵庫は若者の腕の中、その総身の力が、抜けていた。
「鮎川殿!?鮎川殿!」
それでも尚、若者はその身を揺すった。
「鮎川殿!”違うのです”!私は・・・!」
しかし、その声を届かせるには、最早遅かった。
半年後。
「おや。母上が御酒を召し上がるとは珍しい。」
「精一郎。これから道場ですか?」
「はい。・・・ああ。母上。」
「何です?」
「そう言えば今日は、鮎川殿の祥月命日でしたね。」
「精一郎・・・」
「では、行って参ります。」
その老女は、庭の吉野桜を見上げた。
その向こうに。
嫁いだ後も、夫と自分を争った、彼の男の面影を見る。
「・・・兵庫様・・・」
夫も、気付いていただろうか。
その時、腹に宿っていた赤子は・・・
「あ。」
老女の傾けた盃に、ひらりと一片。
小さな波紋は、すぐに消えた。
[完]
それでも兵庫は「生涯独身であった」のです。