Nicotto Town



失恋

ぷっ。

皮膚に挿入された僕の手の刃物は。
一文字にそれを引き裂いた。
腹圧に押されて、臓物が露出する。
血溜りの中、何度も、何度も、それを掻き混ぜた。

やがて。
彼女は、死んだ。

僕は、愛しい彼女を切り裂いて。

殺した。





「あ・・・」

ふわり。

擦れ違い様、風に靡く女性の髪が頬を撫でた。
香り。
その眼。
皮膚の色。
何気無く視界に捉えた女性のそれらが、僕の心を鷲掴みにしてしまった。

「あのっ!」

思考より早く、僕は女性に声を掛けていた。

「は?」

明から様な、嫌悪の表情。
警戒を露わにした固い声。
女性はその美貌から、見知らぬ男に声を掛けられる経験も少なくないのだろう。
だが。

「ぼ、僕、高篠祐樹って言います!」

僕は止まらない。
止められない。

「はぁ。」

「よ、宜しければ、でいいんですけど!」

「はい。」

「お、お名前・・・」

「え?」

「お名前、お教え願えませんか!?」

「・・・」

「へ、変に思うかも知れないけど!べ、別に僕は怪しい者じゃなくって!そ、その、お名前・・・!」

「うふふっ。」

女性が、笑った。
余りの僕のテンパり具合に、思わず警戒心を解いた物と思われる。
僕自身は、自分の突飛な行動に羞恥を覚える事を禁じ得なかったが。

「有明。」

「え?」

「有明、聖亜よ。名前。」

「あ・・・」

その代償に、彼女の名前を知る事が出来た。

四月の終わり。
遅咲きの桜が、少し強めの風に僅かな残りを散らす晴れた日の事だった。





「ご、ごめなさい!待たせました!?」

「十二時、十五分前。私が早過ぎただけよ。」

「で、でもお待たせした事には・・・」

「いーのいーの。それより。」

「は、はい!?」

「敬語。」

「え?」

「なーんか他人行儀ってゆーか、余所余所しいってゆーか。」

「あ、でも・・・」

「私の方が年下なんだし。普通に喋ってよ。」

「は、はい・・・」

「返事は”うん”でいいって!」

「は・・・う、うん・・・」

「あはは!」

聖亜は。
着飾っているのだろう。
真新しい淡いピンクのワンピースの裾をひらりと翻し、愉快で仕方が無いと言った態で、笑った。

「ね、私、お腹空いちゃった!今日は和食のお店に連れてってくれるんでしょ?」

僕達は、あの日の事を契機として、急激に親しくなっていた。
こうやって、待ち合わせをし、二人きりで食事に出掛ける位には。

僕の胸の裡を、語れぬままに。





「あれ?」

そして、ある日。
梅雨入りを告げるような、曇天の下。
降り出した雨に傘を広げた僕の目に飛び込んで来たのは。

「・・・聖亜?」

雨具の用意を怠ったのか、濡れるに任せて聖亜が歩いている。
そして。

「な・・・」

聖亜の背中は煉瓦造りの建物の中へと吸い込まれて行く。
派手派手しい看板が、僕の呼吸を止める。

「まさか・・・!」

僕は塀を乗り越え、建物の敷地内へと侵入していた。

『あっ!』

やがて、聖亜の声を聞き付けた僕は、その壁に背を預け、聞き耳を立てる。
密室には、聖亜と、男が二人きり。
やがて、衣擦れの音。
聖亜が服を脱いだのだと言う事が、はっきり解かった。

「・・・っ!」

それから先は、聞くまでも無い。
その先、そこで何が行われるかは、容易に想像が付く。

「何で・・・何で・・・!」

僕は傘も差さずに、雨の中を走った。
愛しい彼女が、他の男に身を任せている。
その様をいくら頭を抱えて振り回しても脳裡から追い出す事が出来ず、僕の心は壊れて行った。





「そう・・・ばれちゃったの・・・」

聖亜は寂しく笑った。
自嘲の様にも思える。

「仕方ないわ。私、そう言う身体だし。」

そう語る聖亜は、全てを放り投げた様な。
当に捨て鉢に、過剰に思い切りの良い言葉を空に投げ掛けた。

「じゃあ・・・やっぱり・・・」

「私達、これでお終いにしましょう。」

「な、何で・・・!」

「これ以上、あなたの悲しむ顔、見たくないもの。」

「そ、そん・・・!」

「じゃ、さよなら。」

聖亜は公園のベンチから腰を勢い良く上げて、すたすたと歩き始めた。
僕に背を向けて。
だが。

「ん!?んんん!」

何故、今日僕が待ち合わせにこの公園を選んだのか、聖亜は知らない。
この場所は、この時間、めっきり人通りが絶えるのだ。
そう。
”男が女を背後から羽交い絞めにして、クロロホルムを浸したタオルを呼吸器に押し付けても、誰にも気付かれる心配は無い”程に。





「はぁ。はぁ。」

暴れる聖亜を押さえ付けるのには、随分と体力を消耗してしまった。
今、目の前でぐったりと身を横たえている聖亜を運び、車に乗せ。自宅に運び込み。
”それからする事”を考えると、気が遠くなる。

「でも・・・やらなきゃ・・・」

そう。
やらなきゃいけない。
僕の愛しい彼女を。
他の男に、蹂躙させない為には。

「君は僕の物だよ・・・」

声に出した僕の胸は、かつて無い程、高まっていた。





刃物が皮膚を滑る。
全てが露出する。
朱に染まった聖亜の身体。

「綺麗だ・・・」

僕は我知らず、偽りの無い言葉を漏らしていた。

そして。

僕の手の中で。

彼女は、死んだ。





「ん・・・」

朝。

「目が覚めた?」

”聖亜が”瞼を開けた。

「ここは・・・」

「僕の実家。」

「あなた・・・」

入院用のパイプベッドの上、聖亜が目をしばたたせる。

「家、病院だったの?」

「僕自身も医師免許を持ってるよ。だから・・・」

ふぅ、と、溜息が漏れる。

「出会った時から、気付いてた。君が、肝臓悪性腫瘍持ちだって事はね。」

皮膚の色。
特徴的な呼気の匂い。
白目に浮かぶ黄疸。
一目で僕は、それと解かった。

「”あんな男”に”身体を任せて”いたんじゃ、余命一年と言った所だったよ。」

あの日、聖亜が入って行った”医院”。
看板だけは派手な物の、そこの外科医の腕の程は、噂に聞いている。

「じ・・・じゃあ・・・」

「手術は成功だ。術後感染症に気を付けていれば、二週間後に退院出来るよ。」

「ああっ・・・!」

聖亜は、ボロボロと涙を流した。

「じゃあ・・・私、生きられるのね!?」

「ああ。」

「あなたとも・・・別れずに済むのね・・・」

「・・・」

その問いに、応える義務は無い。



医者である僕にとって、最も心躍る瞬間は。
困難な手術に挑む時だ。
特に、肝臓悪性腫瘍。
わがままで、厄介で、その癖、その病巣は美しく・・・
そんな”最高の彼女”との最初で最後の逢瀬は、昨夜、終わってしまった。
”彼女”は、僕の手の中で、ひっそりと死んで行った。

「・・・」

僕は涙を堪え切れず。
そして、あの夢の様な一夜を、思い返している。

「ああ!愛してる!祐樹さん!愛しているわ!」

それにしても、この”抜け殻”は騒々しくていけない。
とっとと退院してくれないかな。
”彼女”に恋い焦がれていた時間をゆっくり思い出す事も出来ない。





[完]




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