節分
- カテゴリ:日記
- 2016/02/03 18:13:39
ブッポウソウと言う鳥が居る。
それは「ブッポーソー」と鳴くから、と言う理由でそう呼ばれた。
が、実はそう鳴いているのは近くにいたコノハズクで、ブッポウソウでは無かった。
しかし、それが知られた今でも、ブッポウソウはブッポウソウである。
ヤツメウナギは、八つも目は無い。
本物の目の後ろに並んだ気門が目に見えて、ヤツメ、と呼ばれるようになったのだ。
名とは斯様に頼り無い物で、その本質を見逃してしまう事がある。
さて、本日は節分である。
節分には「福は内、鬼は外」と声を挙げて豆を撒く。
が。
「鬼」とは一体、何なのだろう。
諸説あるが、実は「隠」、もしくは「居ぬ」が語源とするのが正しいようである。
神道では人が亡くなる事を「隠れる」と呼ぶ。
「この世の人では無くなった、現世に”居ぬ”人」、それが「隠れる」の意味であった。
つまるところ、人が死した物、この世の者では無い物全てが「居ぬ」即ち鬼である。
子供の遊戯「隠れ鬼」は、実は探す方が鬼では無く、「隠れている」者が鬼なのだ。
見付かって、隠れた状態から存在が確認され、始めて「居ぬ」ではなくなる。
「死」を忌むべき物、遠ざけるべき物と考えた古代の人々の、一種の厄払いなのかも知れない。
さて。
ここで思うのが「居ない物を、どうやって追い出すんだ」と言う事なのである。
前述した様に「鬼がいる」とは、居ない物が居る、と言う、甚だ矛盾した物言いな訳だ。
つまり、いない。
いないのならば、追い出し様がないではないか。
それは、追い出すと言うより「自分がまだ居ぬ物になりませぬよう」と言う祈りに過ぎない。
寒さ厳しい二月、この時期は人の死亡率が高い。
実際、私の父も二月が命日である。
寒さに負けぬため、栄養価の高い豆を食べ、頑張って生きよう、と言う決意表明、それが節分の豆撒きの儀なのである。
皆様も御体をいとい、お気を付けなさいますよう。