Nicotto Town



節分

ブッポウソウと言う鳥が居る。

それは「ブッポーソー」と鳴くから、と言う理由でそう呼ばれた。

が、実はそう鳴いているのは近くにいたコノハズクで、ブッポウソウでは無かった。

しかし、それが知られた今でも、ブッポウソウはブッポウソウである。


ヤツメウナギは、八つも目は無い。

本物の目の後ろに並んだ気門が目に見えて、ヤツメ、と呼ばれるようになったのだ。


名とは斯様に頼り無い物で、その本質を見逃してしまう事がある。


さて、本日は節分である。

節分には「福は内、鬼は外」と声を挙げて豆を撒く。

が。

「鬼」とは一体、何なのだろう。

諸説あるが、実は「隠」、もしくは「居ぬ」が語源とするのが正しいようである。

神道では人が亡くなる事を「隠れる」と呼ぶ。

「この世の人では無くなった、現世に”居ぬ”人」、それが「隠れる」の意味であった。

つまるところ、人が死した物、この世の者では無い物全てが「居ぬ」即ち鬼である。

子供の遊戯「隠れ鬼」は、実は探す方が鬼では無く、「隠れている」者が鬼なのだ。

見付かって、隠れた状態から存在が確認され、始めて「居ぬ」ではなくなる。

「死」を忌むべき物、遠ざけるべき物と考えた古代の人々の、一種の厄払いなのかも知れない。


さて。

ここで思うのが「居ない物を、どうやって追い出すんだ」と言う事なのである。

前述した様に「鬼がいる」とは、居ない物が居る、と言う、甚だ矛盾した物言いな訳だ。

つまり、いない。

いないのならば、追い出し様がないではないか。

それは、追い出すと言うより「自分がまだ居ぬ物になりませぬよう」と言う祈りに過ぎない。

寒さ厳しい二月、この時期は人の死亡率が高い。

実際、私の父も二月が命日である。

寒さに負けぬため、栄養価の高い豆を食べ、頑張って生きよう、と言う決意表明、それが節分の豆撒きの儀なのである。


皆様も御体をいとい、お気を付けなさいますよう。




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