Nicotto Town



一花 前編

「さぁかなぁ~、しじみぃ~。」

潰れ長屋の粗末な戸板の向こうで、馴染の売り声。
もうそんな時間か、と床から身を離そうとして。

「ふふ。」

感じた怠さ、節々の痛み。
儂も老いたわ、と大西貫介は苦く笑った。




「な~にを仰ってるんですよう!大西の旦那!」

棒手振り商いの仁太は、かかか、と貫介の愚痴を笑い飛ばした。

「足腰だってぴんしゃんしてるし、お若ぇ、お若ぇ!」

「いいや、もういかぬよ。」

余人よりも早く訪れた、と自ら感じた、身の衰え。
それを理由に、お役目を辞し、隠居を決め込んで、何年になるか指を折るのも馬鹿馬鹿しい。
貫介ももう、六十に近い筈だ。

「あと何度、庭木の紅葉を見られるかのう。」

「そ、そんな寂しい事言わねぇで下せぇよ・・・」

本気で洟を啜り上げる、仁太。
貫介には、身寄りも無ければ、妻子も無い。
故に、この人懐っこい小商いの若者に甘えてしまうのか。

『思えば、つまらぬ人生だったな。』

言い換えれば、今も両刀を腰に手挟む身にして、大事の無い平穏無事な生涯と言えるが。
孤独、寂しさが負の感情を浮かび上がらせてしまう。
と、そこへ。

「待ちやがれ!この女ぁ!」

突然の怒号。
思わずそちらへ目を向けると。

「お、お助け下さい!お助け下さいませ!」

こちらへ駆け込み、そして貫介の背に回り込む、女。

『う、梅殿!?』

しかし、良く良く見れば、全く違う。
目鼻立ちが整っていると言う点では共通しているが、似ても似つかない。

『・・・そうよな。そんな筈は。』

若き日。
共に人生を、と求めた相手。
結局は相応の金と身分を備えた御家の子息に嫁いだ彼の人も、今では五十を迎えていよう。
この様に、うら若き娘御では・・・

「な、何でぇ、手前ぇ等!」

仁太の声に、貫介が我に返る。

「お前にゃ関わりの無ぇこった!」

「そいつをこっちに寄越しやがれ!」

対するは、娘を追い縋って来たと思しき、ならず者然とした二人組。

「・・・懐にした窮鳥を、はいそうですか、と渡す訳にも参らぬな。」

腕に覚えが無いのであろう、震える仁太の背中をぽん、と叩き、貫介がぐい、と身を乗り出し、立ち塞がる。

「爺ぃはすっ込んでやがれ!」

ならず者の一人が、貫介を蹴り払おうと。

「なっ!?」

が、貫介はすい、とそれを躱しつつ、左に回り込み。

「ぐぇっ!」

どん!
と首に叩き付けた、手刀。
その一撃で、ならず者は白目を剥き、その場にどさりと倒れ込んだ。

「や、野郎!」

相方が倒され、恐慌を起こしつつも懐から匕首を抜く、もう一人。
しかし。

「い、痛てててて!」

その切っ先がこちらを向く前に、貫介はその手首を掴み、捻り上げていた。
匕首がからり、と地に落ちる。

「うっ!」

手を放すと同時に、貫介は相手の尻を押し遣るように蹴り飛ばしていた。
べしゃり、と地に潰れるならず者。

ちん。

「!」

金音。
ならず者は、びくりと背を震わせ

「ひ、ひいぃ!」

気を失った相方を担いで遁走した。
抜くぞ、と言う脅しだったのだが、覿面だったらしい。

「す、すげぇや!大西の旦那!」

仁太が歓声を挙げてはしゃぐ。

「・・・」

若年の頃の、嗜みと手慰みのつもりで熱心に行った道場通い。
目録まで行った腕前が、現役の頃には出世の役にも足らず、隠居して初めて日の目を見た皮肉に、貫介はまたも苦く笑う。

「あ、有難う御座います!危ない所を・・・!」

娘が貫介の前に立ち、安堵なのだろう、目に涙を溜めつつ深々と頭を垂れた。

「あ、ああ。いやぁ・・・」

情熱に胸を焦がしていた時分の、その熱の向かう先だった女に、瞬時見間違えた娘。
それに、その様な所作を見せ付けられては、どうにも顔が火照ってしまう。
長らく忘れていた、胸の高まり。

「と、兎に角、委細をお聞かせ願えるかな。何故、あの様な者達に追われていたのだ。」

照れ隠し、誤魔化しのつもりの言葉だったが、結果的に娘を引き留める流れになってしまった。
ひょっとしたら自分はそれを望んだのかと、貫介はちらりと思う。




「・・・私は、先日店を畳みました油問屋、なたね屋の娘で、せつ、と申します。」

「せつ、さんか。」

「店を畳んだってぇのは、あれかい?商売が上手く行かなかったのかい?」

それこそ、お前の方の商売はどうした、と言う所だが、仁太もちゃっかり貫介の長屋に上がり込み、勧めてもいない茶を勝手に煎れて啜っている。

「・・・」

まぁ、二人きりではどうにもいかぬ、と意識してしまっていた貫介にとっては、煩わしくともそれが有り難い事ではあったが。

「いいえ!お客様にも御信頼頂き、商いは順調でした!」

娘・・・せつは鼻息荒く、仁太の言葉を否定する。
負けん気の強い娘だ、と貫介はそれを眺めて思う。

「それじゃあ、何で・・・」

「丑寅一家に・・・目を付けられてしまったのです・・・」

「う、丑寅一家!?」

「知っているのか。仁太。」

「し、知っているも何も!」

丑寅一家の名前が出てきてからこっち、妙に狼狽を始めた仁太は唾の塊を飲み込んで。

「勝手に金を貸し付けて、暴利を無理矢理取り立てる、八九三金貸しですよ!」

と続けた。

「・・・町方は何をしているのだ。」

「さる大藩の御用金貸しも務めてるってぇ話で、迂闊に手は出せ無ぇとか・・・」

「世も末だな・・・」

「お父っつあんも、気付かない内に、仕入れの仲介に丑寅一家が絡んで来ていて・・・」

せつは膝の上でぎゅ、と手を握り締め。
俯いた顔からその拳にぽたぽたと落ちる雫。
その肩と声は、震えている。

「代金の建て替え分だと、五百両の借金を背負わされ・・・」

「ご、五百両!?」

「うちの様な小商いに、五百両なんて・・・家財一切、お店まで売り払っても足りず・・・父母は相次いで、心労の為、先日・・・」

「ありゃあ・・・」

「おまけに、足りぬ返済分の為に、私を岡場所に売り飛ばす、と・・・」

「なんともまぁ・・・」

「・・・」

貫介には、最早言葉も無い。
が。
その眼差しの端に、小さな輝きを宿しつつあった。




続く














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