一花 前編
- カテゴリ:自作小説
- 2016/09/16 12:19:14
「さぁかなぁ~、しじみぃ~。」
潰れ長屋の粗末な戸板の向こうで、馴染の売り声。
もうそんな時間か、と床から身を離そうとして。
「ふふ。」
感じた怠さ、節々の痛み。
儂も老いたわ、と大西貫介は苦く笑った。
「な~にを仰ってるんですよう!大西の旦那!」
棒手振り商いの仁太は、かかか、と貫介の愚痴を笑い飛ばした。
「足腰だってぴんしゃんしてるし、お若ぇ、お若ぇ!」
「いいや、もういかぬよ。」
余人よりも早く訪れた、と自ら感じた、身の衰え。
それを理由に、お役目を辞し、隠居を決め込んで、何年になるか指を折るのも馬鹿馬鹿しい。
貫介ももう、六十に近い筈だ。
「あと何度、庭木の紅葉を見られるかのう。」
「そ、そんな寂しい事言わねぇで下せぇよ・・・」
本気で洟を啜り上げる、仁太。
貫介には、身寄りも無ければ、妻子も無い。
故に、この人懐っこい小商いの若者に甘えてしまうのか。
『思えば、つまらぬ人生だったな。』
言い換えれば、今も両刀を腰に手挟む身にして、大事の無い平穏無事な生涯と言えるが。
孤独、寂しさが負の感情を浮かび上がらせてしまう。
と、そこへ。
「待ちやがれ!この女ぁ!」
突然の怒号。
思わずそちらへ目を向けると。
「お、お助け下さい!お助け下さいませ!」
こちらへ駆け込み、そして貫介の背に回り込む、女。
『う、梅殿!?』
しかし、良く良く見れば、全く違う。
目鼻立ちが整っていると言う点では共通しているが、似ても似つかない。
『・・・そうよな。そんな筈は。』
若き日。
共に人生を、と求めた相手。
結局は相応の金と身分を備えた御家の子息に嫁いだ彼の人も、今では五十を迎えていよう。
この様に、うら若き娘御では・・・
「な、何でぇ、手前ぇ等!」
仁太の声に、貫介が我に返る。
「お前にゃ関わりの無ぇこった!」
「そいつをこっちに寄越しやがれ!」
対するは、娘を追い縋って来たと思しき、ならず者然とした二人組。
「・・・懐にした窮鳥を、はいそうですか、と渡す訳にも参らぬな。」
腕に覚えが無いのであろう、震える仁太の背中をぽん、と叩き、貫介がぐい、と身を乗り出し、立ち塞がる。
「爺ぃはすっ込んでやがれ!」
ならず者の一人が、貫介を蹴り払おうと。
「なっ!?」
が、貫介はすい、とそれを躱しつつ、左に回り込み。
「ぐぇっ!」
どん!
と首に叩き付けた、手刀。
その一撃で、ならず者は白目を剥き、その場にどさりと倒れ込んだ。
「や、野郎!」
相方が倒され、恐慌を起こしつつも懐から匕首を抜く、もう一人。
しかし。
「い、痛てててて!」
その切っ先がこちらを向く前に、貫介はその手首を掴み、捻り上げていた。
匕首がからり、と地に落ちる。
「うっ!」
手を放すと同時に、貫介は相手の尻を押し遣るように蹴り飛ばしていた。
べしゃり、と地に潰れるならず者。
ちん。
「!」
金音。
ならず者は、びくりと背を震わせ
「ひ、ひいぃ!」
気を失った相方を担いで遁走した。
抜くぞ、と言う脅しだったのだが、覿面だったらしい。
「す、すげぇや!大西の旦那!」
仁太が歓声を挙げてはしゃぐ。
「・・・」
若年の頃の、嗜みと手慰みのつもりで熱心に行った道場通い。
目録まで行った腕前が、現役の頃には出世の役にも足らず、隠居して初めて日の目を見た皮肉に、貫介はまたも苦く笑う。
「あ、有難う御座います!危ない所を・・・!」
娘が貫介の前に立ち、安堵なのだろう、目に涙を溜めつつ深々と頭を垂れた。
「あ、ああ。いやぁ・・・」
情熱に胸を焦がしていた時分の、その熱の向かう先だった女に、瞬時見間違えた娘。
それに、その様な所作を見せ付けられては、どうにも顔が火照ってしまう。
長らく忘れていた、胸の高まり。
「と、兎に角、委細をお聞かせ願えるかな。何故、あの様な者達に追われていたのだ。」
照れ隠し、誤魔化しのつもりの言葉だったが、結果的に娘を引き留める流れになってしまった。
ひょっとしたら自分はそれを望んだのかと、貫介はちらりと思う。
「・・・私は、先日店を畳みました油問屋、なたね屋の娘で、せつ、と申します。」
「せつ、さんか。」
「店を畳んだってぇのは、あれかい?商売が上手く行かなかったのかい?」
それこそ、お前の方の商売はどうした、と言う所だが、仁太もちゃっかり貫介の長屋に上がり込み、勧めてもいない茶を勝手に煎れて啜っている。
「・・・」
まぁ、二人きりではどうにもいかぬ、と意識してしまっていた貫介にとっては、煩わしくともそれが有り難い事ではあったが。
「いいえ!お客様にも御信頼頂き、商いは順調でした!」
娘・・・せつは鼻息荒く、仁太の言葉を否定する。
負けん気の強い娘だ、と貫介はそれを眺めて思う。
「それじゃあ、何で・・・」
「丑寅一家に・・・目を付けられてしまったのです・・・」
「う、丑寅一家!?」
「知っているのか。仁太。」
「し、知っているも何も!」
丑寅一家の名前が出てきてからこっち、妙に狼狽を始めた仁太は唾の塊を飲み込んで。
「勝手に金を貸し付けて、暴利を無理矢理取り立てる、八九三金貸しですよ!」
と続けた。
「・・・町方は何をしているのだ。」
「さる大藩の御用金貸しも務めてるってぇ話で、迂闊に手は出せ無ぇとか・・・」
「世も末だな・・・」
「お父っつあんも、気付かない内に、仕入れの仲介に丑寅一家が絡んで来ていて・・・」
せつは膝の上でぎゅ、と手を握り締め。
俯いた顔からその拳にぽたぽたと落ちる雫。
その肩と声は、震えている。
「代金の建て替え分だと、五百両の借金を背負わされ・・・」
「ご、五百両!?」
「うちの様な小商いに、五百両なんて・・・家財一切、お店まで売り払っても足りず・・・父母は相次いで、心労の為、先日・・・」
「ありゃあ・・・」
「おまけに、足りぬ返済分の為に、私を岡場所に売り飛ばす、と・・・」
「なんともまぁ・・・」
「・・・」
貫介には、最早言葉も無い。
が。
その眼差しの端に、小さな輝きを宿しつつあった。
続く