Nicotto Town


ふぉーすがともにあらんことを、あなたにも。


認識の向こうの先に

人間の認識の向こうには、何があるのでしょうか。

そう簡単に答えの出るものでもありませんが、
探求してみる価値はあります。

前提として、人間の個々の世界は個々の認識で成り立っている
という点があります。

また、もう一つの前提として
それら個々の認識の世界には他人は一切侵入できない、という点が
あります。

まず人間の認識ですが、
それらが個であるという前提で成り立っています。

かといって、自我のことを指している訳ではありません。
自我は空想です。

人間全体がつながったちぎりパンのような存在、
ではないということが言いたかっただけです。

もう一つ、それら個々同士がネットワークでつながった状態に
ある、という点です。

ネットワークがなければ、個々を定義づけることはできません。
神がやったのか、ということになってしまいます。

かといって、誰かが個々の定義づけができるか?といえば
そうではありませんが。


前提はこのぐらいにして、本題。

人間の認識は、認識できる範囲と決まっています。当たり前ですが

つまり知っていることしか認識できない、という意味です。

知らないことは、ゲシュタルト能力とよばれる一種の
連想能力によって認識付けできるようになっています。
(苫米地英人氏の著書からの引用)

簡単に話を進めてしまうと、
個々の認識をネットワークでつながないと、意味がないわけです。

グローバリスト的な意見に聞こえるかもしれませんが
インターネットはその典型です。

認知的集合、といったほうがいいのかもしれません。

2013年現在は、進行形で認知の集合ネットワーク化が
進んでいます。

あらゆる意味で、合理化され集束されていくわけです。

なんのことかさっぱり、という人は
認知のデータベースが出来つつある、と思っていてください。

集合的に、認識が運用されていくわけです。

個々の世界は認識で成り立っている訳ですから、
それの集合が進んでいくわけです。(人間同士が合体するわけではありません。)

キーは、ネットワークです。

現在はその最中ですが、
認知・知識の集合が
インターネットによって進められています。

フェイスブックやツイッターなどは、
その余興みたいなものです。

そのネットワーク化が行き過ぎると、
ターミネーターのサイバー戦争、ということにも
成りかねないわけです。

話は置いといて。

ネットワーク化された知識がどこに向かうのかといえば、
それが本項の主題なわけです。

(今認識→ネットワーク化→集合的認知と話が進んでいます)


認識の世界の向こうになにがあるのか、を見るために必要なことは
自分の系外に出ることです。

その為には、自分の認識について理解を深める必要があります。
極端なまでに自分の認識について理解を深めた後で、

自分の認識の系外に出る必要性が出てくるわけです。

(注:自分の〈個々の〉世界は、自分の認識で成り立っています)


そのための試みとして、
認識を深める、空について理解をするということが
挙げられます(詳しくは苫米地英人氏の著書に譲ります)

その空が、自分の認識の限界なわけです。

共有的意識の集合についても、限界点は空である
と言えます。

そこから先は、認識だけの世界になるわけですが
その世界の向こうが、認識を越えた先
ということになるわけです。

まあ、要点だけまとめて結論に至るとすれば
ネットワークと認識を用いることによって

認識の向こうに超えて行ける、ということが
考えられる、ということです。

(大げさに言えば、人間同士をつなぐという意味です)

ここで共有的意識集合のつかい所、ということに
なるわけですが、

まあ人間同士でネットワーク化してハイパーコンピューティングしましょう、
というわけです。(強制、というわけではありませんが)

まぁ、こういうところで話を終えたいわけですが

認識の限界を超えるひとつの方法として
人同士の共有的集合意識の利用があげられる、ということが
言いたかっただけです。(なんか論もへったくれも無くなってしまいました)

そういうことで、今日は終わりたいと思います。

お読みくださった方、ありがとうございました。





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