Nicotto Town


ふぉーすがともにあらんことを、あなたにも。


幸福を科学する

幸福とはすぐ掴むべきところにあるものである。

なぜそれがすぐ掴めるのかは分からない。

ただ、人生を生きるにあたって幸福とは

それほど近くにあるものだからである。


幸福でないという人がたまに理解できない。

もちろん、理由は諸々あるのだろうが

それほどまでにして幸福を掴みたくない

理由が分からないのである。


幸福の定義は、「幸せに感じられること」

というふうにさせていただく。

幸せに感じることこそ、幸福なのである。

ただそこに掴むべき幸福があるのに、

それを掴もうとしない心が分からないのである。


人は言う。

幸福とはなんだろうと。

恐らく答えは簡単だ。

ふだん何気なくしていること

何気なくしていて楽しいこと

恐らくこれが第一義だろう。

取り方はなんでもよい。

その人それぞれである。

もちろん、幸福でないと

言いたい人もいるかもしれない。

だが、その苦しみは如何ほどのものだろう。


理解されないのは、

幸福ではない。

時折勘違いして、

理解されないのを

満足感と勘違いする人もいるが

正しくは

理解されたいからこそ

そうしている自分が好きだ

という意味で

理解されたい何かしている自分を

好きでいるのだろう。

決して理解されないのに

満足しているわけではないのだ。


人は、理解されたがる。

ただ、他人に頼るのは如何様か。

物事の本質的な部分から問い直すと、

いかに他人に頼り幸福を追求すること

の愚かさが見えてくる。

もちろん、他人に幸せを感じることは

悪いことではない。

ただ、その人と対峙して

幸福を追及する時

それの波及するものは

いかなる事象なのだろう。

それの意味するものは

いかなるものなのだろう。

幸福は、追求しづらい。

だが、その手を伸ばそうとしない心こそ

強いて言えば人間には見えていないもの

なのかもしれない。


幸福を科学する時、

人は何かが見えなくなる。

見えなくなってもいい、

それは昨日までの自分である。

この海原に漕ぎ出す時、

人は言うだろう。

本当にこれでいいのか、と。

いいのである。


この情景に漕ぎ出す時、

人は思う。なぜ科学するのだろう、と。

答えは簡単である。

ただ自ずからそうなるのだ。

幸福を追求することは、至極当然のことである。


人として幸福を追求するとき、

人は何を思うだろうか。

果たして先は見えているのだろうか。

答えは分からない。

だが、その先に見えているもの

それは嘘をつかないだろう。


いま海原に漕ぎ出すとき、

人は何を思うのだろうか。

人は何を感じるのだろうか。

こうやって漕ぎ出すときに

感じる櫂の重みは

水の重みは

目の前にある幸福を掴むとき

それはどのように感じられるのであろうか。

幸福は目の前にある。

この掴み様は、どうにも表現できないであろう。

海原に漕ぎ出す時、何を思い漕ぎ出すのだろうか。

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2013/05/31 14:09
幸せは自分で決めることなので

それでいいのですよb

文の主題としては

自分だけの幸せが目の前にあるのに

気付かない

というのを重要視しているので

まいまいさんがおっしゃったような

そういう事象を表しているのですb


過去なんて認識次第でなんとでも変わるので

今でも遅くはないですよb
アバター
2013/05/31 14:00
…('-'*) 幸せの定義って難しいですよね~
相対的なもので…人から見て幸福なことが ある人には不幸だったり~

目の前にある幸福に気がつかないことの方が多くて~(*´ 艸`)
振り返れば、ああ幸せだったんだなぁって思うことあります~

リアルタイムで気がつくことが出来たなら
人生はもっと豊かかもしれないデスね(´∀`*)




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