Nicotto Town


ふぉーすがともにあらんことを、あなたにも。


運命と偶然はいかにして起こるか

なぜ二つの物事が同じ時に起こり得るのか

=つまり、偶然はなぜ起こるのか、という問いです。

一応の答えはこう、

同時間系列上に、二つの物事が
隣り合うと、それは同時に起こる

というものです。

同時間系列とは、
同じ場所同じ時間というものです。

つまり、駅に知り合いがいたら
(そして二人ともお互いのことに関係性があると
思っているなら)

偶然会う確率も高いわけです。

反対に全く知らない人は会うことができません。

駅前広場でも、

仲のいい知り合いに会う確率は高いですが、

知ってるだけの知り合いは会う確率は高くありません。

仲のいい知り合いは、同じことをしている場合が多いのです。

二つが隣り合う、とは

同時間系列上に、たまたま偶然二つの物事が存在したら

という意味です。

駅で隣に彼女が偶然居合わせたら気付かないはずはありません。

仲のいい友達でもそう、

隣にいるのに、気付く可能性は高いのです。

反対に、隣にいない場合は5mでも気付かない可能性は
高いです。

ただ、知り合いのほうが全く知らない人だれか一人よりも
隣に居合わせる確率は高いです。

知らない人は覚えていないことも多いですし、
知り合いが隣に来る確率は高いのです。

以上のことからすると、


同じ船に居合わせた者は喧嘩する(可能性がある)が、

違う船にいた場合は仲の悪くなりようがない。

ついでに、その者たちは同じ船に乗れと言われても
乗りたがらない。(=意図した偶然は起こり得ない)

ということが導き出せます。


数学の有名な、「神はサイコロを振るか、振らないか」
という問いがありますが、

限定的には振りませんが、
まったく関数がない状態では多いに振るといえます。

つまり、牛肉を食べている最中には
牛肉をどうやって買ったかは考えませんが、

牛肉をスーパーで買う前は
どういうふうにして買おうか悩むわけです。

(ついでに、出荷前の牧場主はどう出荷しようか
真剣に悩みます)

つまり、牛肉を食べている状態では
サイコロは振られていない。

食べる→おいしい の順番が確定しているからです。

(もちろんおいしくないという感情も、おいしいとした感想と
一緒の軸に存在することとします。まずかったら、食べません)

逆に買う前(ランダムな状態)では
多いにサイコロが振られています。

誰か足の速い主婦が来て、
目の前のちょっと安売りな牛肉を買っていってしまうかもしれない。

(そういう意味では、予約販売制というのは確実に買える方法でもあります)

牧場主が出荷する段階でも、

もしかしたら疫病があるかもしれない、
といった意味でサイコロは振られています。

つまり、限定的な場合はサイコロは振られないこともある
という意味です。

(ここではあくまで、AさんがBの牛肉を食べてCと思った
という順番が確定しているからです。

誰が食べるか分からないというアトラクターは
誰が牛肉を食べられるか、という競争のベクトルになります。

ここでは平穏に、AさんがBの牛肉を食べる のは確定的な
事実とします。

そしておいしい場合にのみ、食べるので
Cと思うのもAさん次第ですが確定的です。)

限定的な場合にのみサイコロが振られないこともある
とは、次のことも指しています。

つまり、Bの牛肉を食べてCと思ったAさんは

Bの牛肉を食べたかどうか、と

C以外にも感想はあったかもしれない
(Cとは限らない)

という場合において

本当は感想も食べた肉も
ランダムなのではないか

ということが言える
ということです。

これはつまり、

サイコロが振られない=本当はランダム
という可能性を内包しているということ。

強いて言うならば、
サイコロは振っても振られなくても
物事はランダム

ということが言えるわけです。

最初の偶然の可能性について
述べた部分でもそうですが、

同じ時間系列に居合わせたのなら
同じ場所に居やすい(=会いやすい)

となるのなら

同じ場所に居合わせても
もしかしたら別人かもしれない

という可能性もあるということです。


つまり、偶然の一致もあるが
物事はつねにバラバラでカオス
という意味です。

これをつなげるのなら

偶然に一致しても常にその物事が内包するものはカオス

という意味です。

なので、会えたら“運命”でも
会えなかったら“運命ではない”

ということは言えないわけです。

この場合は、

会えた場合にのみ記憶し
会えなかった場合はそもそもなかった
事実として取り扱われる。

つまり、記憶のみがアプリオリに知っているのであって、
会ったか会えなかったかという事実は
カオスのまま、ということです。

つまり会った場合は、カオスで

会えなかった場合は、なかった架空の事実なのです。

(会った場合はカオス、というのは
会ってもうまくいくかどうかは分からないからです)

会った場合には、
会えた、楽しかったという事実が残りますが

会えなかった場合はなんにも覚えていません。

つまり、その人の軸ではなかったことに、

それを見ていた偶然会い損ねた恋人は
その事実を、「会えなかった・見過ごされた」
と記憶します。

つまり、偶然に会うことはあっても
偶然に会えなかったという事実はない

ということになります。

このことは、次のことも指しています。

もし偶然会えないのなら
やめてしまおう、と思うのなら

偶然会って「嫌いだバカヤロー」
と言ってしまったほうが別れられる確率は
断然高いわけです。

つまり、運命がどうのこうの言うカップルは
デタラメ。

最初からお互い好きと言ってしまえば
運命なんていらないのです。

そのあとで、ひたすら運命的だったか
どうかについて話し合えばいい。

最初から運命なのだから、“運命で会った”
なんてことはないのです。

偶然は意図して起こせますが、
まったく偶然ということは起こりません。

神はサイコロを振りますが、
偶然は起こり得ないのです。

アバター
2013/08/04 08:02
おはようございます✿

訪問感謝のstpおとどけです!

↑の文章スゴイですね!
時間がある時にゆっくり読みに来たいです。
アバター
2013/08/03 17:42
もし偶然を認めるのだとしたら

神はサイコロ遊びよりも
カードゲームのほうが好きなんでしょうねb

コメントありがとうございましたb
アバター
2013/08/03 17:35
お初ですー
サークル承認ありがとうこざいます♪
読ませていただきました。
ムツカシイです( T-T)
でも面白いです♪

偶然は起こりえない
いろんな宗教もそう説きますよね。

「神はサイコロを振りますが、
偶然は起こり得ないのです。」

いい日本語だわっ




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