Nicotto Town


ふぉーすがともにあらんことを、あなたにも。


ただ、ゲームをやっているのは危険

ただ、ゲームをやっているのは危険です。

ここでいうのはテレビゲームのことではなく、
もっとそれを含めた社会全体などのゲームのことです。

資本主義もゲームですし、民主主義社会システムもそうです。

ただやっているのが危険、とは
ただやっているだけでは既存の社会システムに取り込まれるからです。


言うなれば、歯車の一部になっているわけで、
チャップリンが警鐘したそのままになってしまう、ということです。

第二次大戦時代の風刺でも扱われるこのような実態が
今になっても続いているというのは大問題です。

既存のシステムや、既存の構造は何も幸せをもたらしません。
いや、あえて正しく言うなら今まで通りのシステムに頼っていては
何も幸せになれないのです。

もう少し詳しく説明すると、
今までの社会システムなどの構造は
すべてゲームです。

ゲームは、ゲーム理論で扱われるゲームのことで
ゲーム内ゲームとゲーム外ゲーム(メタ・ゲーム)があります。

基本的に、今のゲームというのは大きく分けて
このふたつです。

ここで危険と言っているのは、
ゲーム内ゲームのほうです。

基本的に、ゲームというのはゲーム外の要素で動いているので、
ゲームを主導したかったらむしろゲーム外ゲームをやるべきなのです。

ゲーム内のほうのゲームとは、ゲーム外のゲームによって
動かされる、いわゆるシステムの内部のようなもので、

いわゆる歯車の部分です。
ゲーム外ゲーム(メタ・ゲーム)は、ギアボックスの部分でしょうか。

掘り下げると、
歯車のシステムを操作しているのがゲーム外ゲームで、
ゲーム外ゲームは系外なので自由の論理に基づいて動いています。

まぁ、中よりも外のほうが自由、というわけですね。
ここで言いたいのは、ゲーム内のゲームは完全に外に操作された、

いわゆるシステムの中、というわけです。

システムの中では、個人の感情や想いを無視して、
すべてが金や権力などの論理で動きます。

システムの中ではすべてがシステム通り、というわけです。

これって、危険ではありませんか?
個人の感情や自由意思を無視して、

すべてが利権などの既得権益で動いてしまうのです。
システムの中に入れば、システム通りに動くように
セミオートで半強制されてしまいますから、

文字通り歯車です。そんな人間に自由意思を存分に活かす余地など
ありません。

まぁ、ここでは歯車だからそう言っているのであって
システムから放り出されれば(解放されれば)たぶん自由意思で動けるように
なるのでしょう。

ここでは、自由意思についてとやかく言っているわけではなく、
あくまで既存のシステムに依存・取り込まれるのが大問題だと
言っているだけです。

文字通り、歯車というのは既存のシステムという意味で
非常に危険なのです。


なぜ、ここまで危険か、というと
詳しく説明するのなら

システムの中では、そのシステムは
ゲーム外ゲームのオペレーティング(指令系統)で
動いているためです。

つまり、何をやっても他人の思うがまま、という意味なのです。

つまり、何をしても奴隷で他人に利用されるだけ、なのです。

本人は自由のつもりでやっていても、
それがシステムの中のゲームの行動の場合は、

あくまでシステムのオペレーティングの予想通りの行動であって、
システムが存在し続ける限り、決して自由ではない、ということです。


一番の問題は、システムの存在にそもそも気づかなかったり、
あるいはそれがシステムの中のゲーム内ゲームであることに
まったく気づかなかったりする、ということです。

まぁ、早い話社会システムからの洗脳なのですが、
システムを乗り越えるにはゲーム内ゲームから抜け出して
ゲーム外のオペレーティングに身を置くことです。

まぁ、最低でもゲーム外の視点には立ちましょう、ということです。
ここで言いたいのは、ゲーム内のゲームをやっているのが危険、
(さらにはゲーム内のゲームそのものが危険、というわけです)

ということですから、
システムからは抜け出したほうがいいのです。

ゲームから抜け出す方法としてはいくつかあるのですが、
まずは、知識量を積んでゲーム内ゲームから抜け出すこと。

(通常はゲームというものはそこで知識量を積めば
そのゲームはクリアできるものです。ただ、そこまで知識量を積んでも
やはりそのゲームのトップに立ったに過ぎません)

そして、ゲームはレイヤー(層構造)なので
そのゲームのシステム全体を動かしているゲーム(理論)を知ることです。

それができれば、やはりゲームからは抜け出せるのですが
それでもそのゲーム(メタ・ゲーム)をやっているのは危険です。

ゲーム内ゲームから抜け出せば、とりあえずは
ゲームをやっているのにゲーム内ゲームからは抜け出した
二律背反状態になるので、

ゲームはやっていないのですが
メタ・ゲーム(理論)はやっていることになってしまいます。

つまり、オペレーティングの俯瞰できる立場に立ったはいいけど、
それでもそこでゲームに取りつかれてしまったら
やはりゲームはゲームでしかないのです。

先ほどの、ゲームをやっているのは危険、と
なんら変わりのない状態です。

ゲームから抜け出したら、
何の制約も受けずに自由に動く、
これができないと、(というか、ゲーム外のゲームそのものに憑りつかれていては)
やはり本当の意味での自由意思とはいえないのです。

少なくとも、ゲーム内のゲームをやっている状態では
非常に危険です。

ゲーム内は、既存のシステムでしかありません。
外側のゲームに立っても、やはり既存のゲームの箱に触れただけですから、

やはりそこからは自由にならないとやはり自由であるとは
いえないのです。

結局、ゲームを支配したくてゲームの外側に出て、
メタ・ゲーム理論を身につけても仕方がない、ということです。

言い換えるのなら、ゲームを支配したいがために
ゲーム理論を身につけても仕方がない、ということです。

経済学をやっていると余計に貧乏になるのと一緒ですね。
結局、経済学も奴隷の論理でしかないので
身につけたところで幸せになれない、ということです。

(リスクヘッジは、それ自体がリスクを生む、という事実もあるくらいです)

ゲームに取りつかれる、とは
結局ゲームの中をやっているのと
なんら変わりがない、ということです。

その意味ではゲームの外側に立ってみても同じ、
ということで

ゲームの外側に立ったら、ゲームを操作して支配しようというのではなく、
ゲームからは抜け出して完全におさらばしないと、

そもそも根本的には自由になれない、というわけなのです。

ゲームの外側に立った、とはいえ
ゲームを操作して支配したい、だけでは

ただの利権、ですからね。

そこから抜け出して、初めて本当の意味で
自由になれる、というわけです。

アバター
2015/08/01 14:09
これかも!と思ってここに....φ(ゝω・`○)

仮想空間も同じようなことが言えるよね。

例えば、自己中爆進型キャラが幅を利かせている場所では
いつも半強制的に振り回されてばかりで疲れ切ってしまう。

そのまま、ただやっていてはキケンなんだね。

「考えるな感じるんだ」
一歩引いた画面外の広い視野で見てみることにします^ ^




Copyright © 2024 SMILE-LAB Co., Ltd. All Rights Reserved.