Nicotto Town


ふぉーすがともにあらんことを、あなたにも。


少年は何を考え、何を書き、何を感じるか

日々というものは不思議なものである。

過ぎ去るのは速く、顧みるのは遅い。

取って返しても、取り返しはつかないのだ。

アウグストゥスに言わせれば、
「ブルータス(過去の偶像)、お前もか」
「(日々の、日没の)賽は投げられた」

なのだろうが、

正直日々の進行というものは
顧みても得難く、また取り返すのも難しい。

何が言いたいのか、といえば
振り返っても、何も得られない

ただそれだけのことなのである。


塞翁に言わせれば、
北方寒土の馬は得難く、そして息子もまた得難い。

両方失えない、とあっては
どちらが重要かも見誤るものだ。

これがどう、というわけではないが
戦争で馬を失ったほうが、むしろよいのであって
戦争で息子を得た、とは水盆の魚を得るの等しい。

要は、寒地にあっては何がものの良しあしであるかを
見失う、ということだ。


棺桶に言わせれば、

何が入っているのかが重要、なのではなく

何が入ったのか、が重要なのである。

過ぎ去ったものとは、いとも簡単に置き去りにされるのであって
何が埋まっていようと、何が残っていようと関係ないのである。

何が入ったのか、とは
どういう伝手で、経緯で、ということであって

どうやって入ったかも今どうなのかも関係なく、

タダ何が入ったのかが棺桶にとっては
重要なのである。

要は、月日は得難く、人生塞翁が馬、なのである。


故事に言わせれば、先のことなど読むに容易く、
昔のことなど顧みないことは容易い。

ただ、それが指し示しているのは
せいぜい昔の人の思い入れが先に実現しない、
ということだけである。

分かりやすくいうと、読むのは簡単だが、
実現するのは未来の人、ということである。

そこにいる人だけが、それを体験しそれを成し得るのである。

それを読む昔の人の知恵とは、いかほどだろうか。

いやいや、歴史は繰り返すものだ。
アラブの歴史家でさえも、そう言うだろう。


歴史を読むのは容易い、
そして先を読むのも容易い、

ただ重要なのは、そこに誰がいるか、だ

誰が何をしているか、はそこまで重要ではない。

「行いよりも産むが易し」





Copyright © 2024 SMILE-LAB Co., Ltd. All Rights Reserved.