Nicotto Town


ふぉーすがともにあらんことを、あなたにも。


ゲームと構造論(続)

ゲームを究めなければそのゲームの頂点には立てない、
究めなければ、そのゲームからは抜け出せない、と以前書いたと思いますが、

それは、その考え方が構造論によるものである、からでもあります。
もっとも、構造論であるからその構造に縛られる、唯識のような考え方でも
あるからですが、

とかく、ゲームにおいては、その頂点に立って究めないと、
その外の世界は見えない、ということでもあります。

これは、お金においても同じで自分の満足する額を稼ぐ、あるいは
それに満たされる状態に置かれなければ、

お金の本当の役割、使い道に目覚めることはできない、
といった論になります。

もちろん、この額については、個人の道の究る額、
つまり、満ち足りる額であればいくらでもいいのですが、

元よりそのお金の呪縛から抜け出している人でなければ、
多少のお金なり稼ぐ方法を知っていなければ、

なかなかお金からは解放されません。
もちろん、お金を使わずにお金から解放される方法もあります。

何が言いたいのか、というと
ゲームの構造論においては、ゲームの頂点に立つ、あるいは
究めて抜け出さないと、ゲームの頂点に立つ、そのゲームを知ることは
できないのです。そのゲームを知ることができない、とは

そのゲームを外からも眺めることはできない、というわけです。

もちろん、ゲームの構造論の話なので、
その構造を無視してしまえばゲームを外から眺めることは
いくらでもできます。

でも、もしそれが仮にできた、として
その人はすでに構造論においてもゲームをクリアしてしまっているわけですから、
そもそも構造論は関係ないどころか、ゲームを究めた状態である、ともいえます。

もちろん、ゲームなんてやってるつもりはないんだけど、という人でも
ゲームの上の、構造というか天界の性質を知った、ということですから
ゲームはクリアしたはおろか、最初から悟りに近いものを持っているのです。

もちろん、これはどこかで手に入れたか、
なんらかの過程で身につけたものでありますが、

どちらにせよ後天的なものであるにせよ、
ゲームの構造論を無視してしまった、ということです。

もちろん、これはいいことでも悪いことでもなく、
ただ単に悟っている、というだけの話です。


さて、その構造論というものについては
至って簡単で、この場合は特にゲームと呼ばれる構造論についてですが、

率直に言いますと考え方の問題、によるものなのです。

先に出した唯識ではありませんが、
あるといえば、ある。ないといえばない。で

構造論がある、という人には構造が見え、
ない、という人には最初から自由で奔放な世界しかないのです。

もちろん、あってもなくてもいいのですが、
かくいう語る以上は、あるものとして語らなければいけないので、

ゲームの構造論を話す上では、やはり構造、ゲームはあるのです。

そも、卵が先か、鶏が先か。という論議にもなってしまいますが、
構造論は、ある、とした場合のみ必要な構造で、

もちろん、ないのに、ないと論じることもできませんが
一応は構造の産物なのです。かくいう構造も、ゲームの構造などという
仕組みの論議の産物なのです。

なので、鶏がなければ卵を論じることはできない、と同じで
ある意味構造論があるから構造がある、

構造論を論じるために構造がある、といった具合に
構造論が構造を造ってる、といったちょっと皮肉な状態なのです。

かといって、その骨肉よろしく世の中のことを論じるためには、
構造というのは非常に重要な単語でした。

まぁ、結論からいえば、構造論が構造を作っているのです。

唯識と同じで、あると論じている以上は存在せざるをえないのです。

この考え方でいくと、ゲームはやはりあるし、その頂点に立って究めないと
そのゲームの外は見えない、ということにもなります。

もちろん、そのゲームがない、という人は
最初からゲームから抜け出している、ということです。

何が言いたいのか、といえば
ゲームの構造というものをよく知らないと、
ゲームというものは上手く抜け出せない、ということです。

ここでいうゲームとは、電子機器のゲームもそうですが、
特に、世の中の構造、その仕組みについて、です。

構造を知らずして、構造を語ることはできません。
ゲームを知らずして、ゲームから抜け出すことはできない、のです。

アバター
2014/10/10 13:32
ごめんなさい。

たまに覗こうと思うのですが、INしてすぐ落ちたりするので…。
INして時間ある日はきちんと覗きます。




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