オスカー・ブラッドレー博士の記し書き―2-Ⅰ
- カテゴリ:自作小説
- 2013/06/21 11:36:41
ダークサイドはすべての技へと
つながっている―――
パルパティーン―スターウォーズEP3
私は筆を置いた。
薄暗い部屋に、ほんのり光が差し込む
コップの端は欠け、窓には虫のぶつかる音が
する。
―こんな感じか……。
―ダークサイドはすべての技へと
つながっている―――
ありえぬと思うことも可能なのだ―――
何度見てもおもしろい。興味を惹かれるのである。
もちろん、これを見たからといって
ダークサイドに堕ちるわけではない。
だが、その喋り方は危険極まりない
危険そのものだ。
本で読んだ気がする。
パルパティーンのしゃべり方は
人を説得するのに最適だ、と。
それを映画の中で再現するのだから
ルーカス・フィルムの再現力は計り知れないもの
である。
ときに、ダークサイドとはどういうものだろうか。
ちょっと考えてみようと思う。
ライトサイドなどない。
よく考えたら、混沌としていないものが
強いて言えばライトサイドである。
ジェダイの騎士のモデルは恐らく
テンプル騎士団などであろう。
民衆を説得するだけの権力を
持ち、
ひとつの力の元結集する……。
世に描く、「見た目善良集団」
の典型はこういうものかもしれない。
話を戻そう。
ダークサイドは、
おそらく触れられないだけ
多くの技術へとつながっている。
ただ、それらの技術が高すぎるため
ダークサイドなのだろう。
これらから導きだせる事実は、
見えないものは高い技術がある
ということである。
ライトセーバーは世の中にないが、
世の中には誘惑や権力のネタは
いくらでもある。
それらすべてがダークサイドのえさだと
思うと、
誰もいったことのない領域に本当の
技術があるのではないか
と思ってしまう。
クローン兵もないが
今はドロイドの戦場の時代である。
そのうちクローンが戦う時代が来るかもしれない。
あるいは惑星探査をクローンで行う時代が
来るかも。
どっちにしろ、今のまま地球上にクローンを
ばら撒いたら、
それこそクライシスである。
―ダークサイドはすべての技につながっている。
この言葉の本心は、
おそらく何ごとも力を求めすぎると
バランスに支障をきたす
というものだろう。
だがこれは、帰納的定義において
成功した人は、失敗しやすいのであって
失敗も成功もしてない人は、失敗などしないのである。
よって、成功しないと失敗しないのであって
何もしなければ、失敗も成功もないのである。
というところから考えると、
何もしない人はダークサイドに堕ちない。
強いて言えば、
それをイメージで考えられる人は賢者なのである。
ちなみに、何かを極めれば
ダークサイドに堕ちる可能性はできる。
ジョージ・ルーカスの言う
力を持ちすぎると、使い方を誤る
というのはそのことだろう。
もちろん、作中のメッセージだが
大衆ウケしやすいプロパガンダ
という見方もできる。
なんのプロパガンダか分からないが、
おそらく権力への啓蒙であろう。
おそらく、今までの権力者は
力の使い方を誤っていない。
バカな人物が、権力者になったのであって
権力が必ずしもバカにさせたわけではないので
ある。
もし、それを許すのであれば
権力を握った人は全部バカ
ということが成り立ってしまう。
それはありえない。言っておこう。
権力者は得てして狡猾で
乱世の奸雄というものである。
治世の能臣はないだろう。
どこもかしこも腐敗だらけである。
この場合の問いは、
議会制民主主義が腐敗したのか
民主政治システムそのものが腐敗したのか
すべて資本主義に飲み込まれてしまったのか
それは定かではないということである。
民主主義は誰も触れることはないが
疑問を持つべき部分である。
もちろん、ただのうのうと受け入れるものである
べきではなくて
きちっと検討するのが重要だという意味で、
である。
民主主義にメスを入れることこそ、
ダークサイドにつながる道を探ることに
なるのではないか
ということである。
おそらく、ダークサイド
というものは
見えていないもの、である。
見えていないから、ダークサイドなのであって
もちろんルーカスが描いたのは見事な悪だが
権力に登る側が必ずしも悪だとは言い切れない。
権力という腐敗システムが悪を作るのであって
現在の民主主義ではそのような解釈が妥当だと
思う。
民主主義は腐敗を嫌悪して作られたが
その根源をさかのぼるためには
民主主義以前の制度を見なくてはならないだろう。
今回は詳しい事実については
時間がないので割かないこととする。
重要なのは、ダークサイドがどこにつながり
どこに向かっていくのかだ。
ちなみに、人がダークサイドに堕ちるのであって
影がダークサイドに堕ちるわけではないから
ダークサイドに堕ちた人、が
いるのであって
必ずしもダークサイドに堕ちる
という概念が存在しないというのが
重要である。
強いて言えば混沌がダークサイド
とも言えそうだが
未開だから混沌なのであり、
ライトと羅針盤があれば
それを解くことも重要である。
何はともあれ、行き過ぎはよくない
ということである。
ダークサイドという事実は
人々に悪の権化
(いわゆる身代わりであって
本当の悪ではない)
を認識させるものである。
つまり、民衆の目に触れるのは
悪の権化、であって
実際の権力を操る
悪そのものは見えないのである。
もちろん、その悪そのものも
悪ではない。
ポジションとポストが
悪なので
(あるいは悪が生まれやすい場所で)
あって
必ずしも
悪があまり存在しない場所であることは
確かである。
悪魔を世の中に例えるなら、
隙間に入り込むものである。
“飽く間”が悪魔なのであるが
とにかく隙間はカオスを作るのであって
必ずしもカオスが隙間すべてを
作っているわけではない
というのが現状である。
はたまた、隙間がカオスか
といったらそうでもないし
カオスがあると隙間が生まれるか
といったらそうでもない。
隙間そのものがカオスでもないし
カオスを強いて例えると隙間なのである。
だから、悪魔がはびこるとしたら
隙間しかない。
そういう結論なのである。
ダークサイドはすべての技へ
つながっている―
は、その帰納的技術の多さから
入れられたセリフだと思う。
現状、その「技」は定かではない。
ただ、どこかにその入り口があるのであろう。
あるいは、入口そのものがダークサイドなのである。
多くは、カオスのなかにその入口が
あるものと思われる。
カオスがダークサイドのフリをしているのだ。
エピソード5で出てきた
霧が立ち込める洞窟で
幻が見える
というものだが、
あれこそカオスそのものだ、と
思う。
ジョージ・ルーカスのプロットに頼るのも
なんだが、
暗い洞窟を探検するのは
ダークサイドを探求するのに似ている。
一応早い話、
探求する目的がダークサイドでなければ
探求するのがダークサイドでも問題ないわけだが、
なにをどうしようと
洞窟をダークサイド目的で探求するものは
いまい。
あるいは、そういう人もいるかも
しれないが
見えないものを探しても無駄かもしれない。
ただ、それは明らかに見えないものについて
語っているからであって
目標など見えないもののことを語っているわけではない。
早い話、洞窟は混沌としているので
古代人でなければ早々に出てくるがよい
というどうでもいい結論に達してしまうのである。
ダークサイドの入り口とは、
現にこういうものかもしれない。
入っては追い返されるのだ。
これはただごとではいかない。
ペンを置き、
パソコンのスイッチを切る。
今日の外模様は雨だった。
そういえば一回も外に出ていない。
―続く