オスカー・ブラッドレー博士の記し書き2-Ⅱ
- カテゴリ:自作小説
- 2013/06/21 12:04:40
カオスというものは、
ダークサイドを気取るのが上手い
そう思わないか―。
哲学ではダークサイドは追求できないかもしれない
というのも哲学の範疇なのである。
だが古の人にはダークサイドは毛嫌いされたものだろう。
歴史を掘り起こしてもダークサイドは見えそうにない。
おそらく現在時制なのであろう。
集合と離散の概念から考えれば、
カオスとはおそらく現実の集合からは
外れているが
必ずしも無に至らない部分から
出来ている。
そう思う。
ジョージ・ルーカスのプロットに頼らず
ダークサイドを解釈するのなら
無ではないけど
現実から外れている
ものである。
つまり、描く先の未来すべてが
カオスなら
それそのものはダークサイドなのである。
つまり、カオスのないところ
ダークサイドが入り込む隙間はない。
あるいは、隙間にカオスがはびこるのなら
ダークサイドは隙間に入り込む余地がある。
ダークサイドとは、脳の鍵を開ける
キーのようなものかもしれない。
鍵とは得てして意地悪である。
開きもしないのに、入れ方を
間違えると
南京錠本体まで壊してしまう。
思考の開拓と似ている。
鍵のありかは、誰にも
分からないが
見たことろ味方の者からは
鍵を奪うことはできない。
同行者が敵になるパターンである。
ようは、最終的に一人で行かなければ
ならないのだが
同行者というのは時に存在自体が
邪魔になる場合もある。
得てして不思議なものだ。
そういう場合に愛するものは含まれない。
それを許されるが故、人は結婚などというものを
するのかもしれない。
よく、友は類似するとも言われる。
向こう岸に見えるものがなんなのか、
何も見えないとき
類似する友は果たして
敵なのか
味方なのか
それは誰にも見えないだろう。
ただ、あり得る論理は
敵か味方かは
分からないが
それがいずれは敵になる
場合である。
そのケースにおいて、
友は敵である(=類似する)
とも言えるのである。
敵同士はくっつきやすく、
味方同士もくっつきやすいと言える。
要は友は類似するとは、
そういうことかもしれない。
おそらく、カオスの深淵が
ダークサイドだろう。
悪の集まる場所
とすれば分かりやすいかもしれない。
誰も探求したがらないのだから
悪の集まる場所
という認識が成り立つのも当然だろう。
物語は誰にも見えない。
それがカオスでないのは
明らかに作った人には
見えているからである。
人生にはプロットがない。
だが好きなように台本を描けるのは
あなた自身である。
カオスへの旅はひとまず終了だが、
今後はダークサイドを“明るい側面”
から見てみようと思う。
―2-Ⅱ終―
ありがとうございますっっっ
素晴らしい文に感動しました