Nicotto Town


ふぉーすがともにあらんことを、あなたにも。


オスカー・ブラッドレー博士の記し書き 4

壺の中は神秘である。

壺は冥界にも
例えられる。

入ったら出られない
という類だろう。

もし、その中に本物の自由が
あるとして……

はたしてそれを見るために
手を突っ込むだろうか。

古代人はそれを禁忌と呼びならわした。

いわくつきのものは
認めないのである。

だとするとハイテクが
彼らの信仰心を破ったことになる。

科学が宗教と対比される理由だろう。

壺の中身は、

科学的にいうなら
前入れたもの

宗教的には
いわくつきで取り出してはいけないもの

後者が狂信染みているのは
明確だろう。

ただ、そういうものに
戒めを込めたのも
明らかである。

取り出した中身が
なんであるにしろ、

その不思議さには
いとまがない。

逆に取り出してしまうと
神秘めいたとか
いわくつきとか

そういう概念はなくなってしまうの
だから、

宗教的理由は
まったく根拠がないことが
分かる。

宗教は未開の恐怖と
呼べよう。


壺の中身を
宗教的に別の観点で
見た場合、

誰かのものだから
取り出してはいけない

という観点が成り立つ。

つまり、帰納的に
前入れた人物が分からない場合である。

それを先験的に
知っている人物でないと
分からない

というものであるが、

アプリオリにでなくても
それを知り得る方法が
ひとつだけある。

数学を用いることだ。

簡単である。

取り出したら損をするかどうか。

取り出したら前の所有者に殺されるかどうか

そういうことで決めればいい。

ある意味ゲーム理論だが

そういうのがいわゆる折衡である。


ものごとのバランスは、
話に事欠かない。

バランス自体が
一部と全部を形作っているからである。

一部の相似な模型と
全体像がバランスが取れていること
からも分かる。

人間は遺跡に祈りを込めて
建造する時、

常にそういうことを
心がけてきた・

数学とは地球の学問である。

よって地球上のものは
数学と全てフラクタルである。

光の速度は、
地球外人に測らせたら違うかもしれない。

基準となる単位が変わるためである。

物理学は常に基準を
を求めてきた。

基準が変われば
物理学も変わるのが

定めである。

物理学は地球上のものを
測るのは容易い。

ただ、宇宙にいったとき
それがどれほど計測できるもの
なのかは不明である。

そんなとき役に立つのが
高等数学である。

抽象的な考えが、
抽象的な空間では
助けになる。

今まで通りの
演繹では、

何も分からないのである。

人間は格言を
他人に適用するのは
得意だが、

自分に適用するのは
得意ではないらしい。

郷に入れば……
とはよく言ったものだが

自分が差別の対象になる場合、
人は果たしてその言葉に
どれほど忠誠を誓えるだろうか。


物理学はこれまでほぼ何も
明らかにして来なかった。

全部地球上の数値だからである。

それが宇宙に適用される時、
本当の宇宙を見るのだろう。


日はまた昇る。そして沈む。

そのサイクルとは関係なく、
悪魔の壺は存在する。

その扉を開ける時、
あるいは開ける一瞬の前

人は何を考えるのだろうか。

開けた後にしか分からないが、
開ける前は分からない

それを他人から見たら
パラドックスである。

本人は最初から
見た気でいるのだから
仕方ない。

悪魔の壺とは
そういう意味では
なかろうか。





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