オスカー・ブラッドレー博士の記し書き Ⅱ‐3
- カテゴリ:自作小説
- 2013/07/04 17:52:45
自由。
それは確約されたものだが、
また手放すように手から離れていって
しまうものでもある。
そして混沌。
その混沌の世界には
自由がなんであるかという
定義の渦がある。
そしてピラミッド。
情報社会の王として君臨する
情報のピラミッドは
さしずめ必要な情報の
ヒエラルキーといったところだろう。
そして私たちの住んでいる社会。
これもピラミッドといえるが、
内実はピラミッドのようで
そうではない。
この表現の世界に、
本来の自由などあるのだろうか。
表現を介した世界に
自由などあるのだろうか。
(全体UにBを入力するとCが出ますよの類
自分という概念に宇宙を入力したら自分をつくるすべての概念がでます)
をこの世に入力した場合
制限とか、表現の制約とか広告規模とか
使うインタフェースの規模とか
様々な意味で制限がかかりますよねb
そういう意味で、何もない状態で
拡声器持って全世界に発信できたら、
それこそ自由じゃないか
という発想なのですb
ピラミッドは、
いわゆる階級社会の
階層構造(ヒエラルキー)のことです。
実はそれは人間が歴史の中で
組み立ててきただけであって
実際にはピラミッドのような構造は
存在していない。
ある意味真の自由論とも言えそうです。
(この自由論も、ひとつ解明されると
もう一つ新しい、さらに奥深い自由論が出てきます。
さっきの幻想ではありませんが、
解いても解いても、新しいのが出てくるのですb
いわゆるカオスかもしれませんねb
確かにピラミッドには住んではいないけれど、そういう物理的な意味では無いですよね?
表現の世界に自由はあるか?
という問い。
ふむ。なるほど、此処でいう表現の自由の範囲がどこまでを指すのかが分からないが
表現の規制という事実がある以上、そういう意味での『表現の自由』という定義のもとでならば、表現を介した世界に自由があると言える。と思う。