Nicotto Town


アオイさんの日記


side 外と中の境界線・3

「ヘイゼル少年よ、返事は早めに頂戴。アオイちゃんも」
 そう言ってヤマブキは席を立った。
 はあい、とアオイとそろって返事をして。だけど、どうしようとヘイゼルは俯いた。
 やりたい。声をかけて欲しいと思っていたくせに、実際に手が届いた瞬間に気後れするなんて。本当に自分はヘタレとしか言いようがない。
ヤマブキと一緒に帰り支度を始めたサハラが、そんなヘイゼルにそっと声をかけてきた。
「チャンスというものは案外少ないからね。とりあえず何でも掴んでおいたほうが良いよ」
助言というには少し茶化すような雰囲気が含まれたその声に、サハラさんは本当にヤマブキさんに似てきたな。とヘイゼルは顔を上げて小さく笑った。
 うん。分かっている。特にこんな平凡な自分にやってくる幸運の数なんて、きっと片手で足りてしまうだろうから。
 じゃあね、ごちそうさまでした、と去っていく二人を見送って。ヘイゼルはカップに残っていたコーヒーをゆっくりと飲んだ。アオイは二人が使っていた食器を下げて、カウンターの奥で洗っている。かちゃかちゃとささやかに陶器の触れ合う音が、小さな音で流れるレコードの音に混じって店内に響いていた。
 二人いなくなってアオイが仕事に戻った分、落ち着きが増した店内でヘイゼルはコーヒーを飲みながら、自信について考えていた。

 知恵も容姿も運動も、十人並み。飛びぬけたカリスマ性があるわけでも、人を癒すような穏やかさがあるわけでもない。平均点。としか言いようのない自分。何も結果を生みだした事のない、なんとなく日々を過ごしている自分に自信なんてやっぱりとうてい身につかないのかもしれないなあ。

 これじゃあ、このままじゃあ今後もヤマブキさん達に負けっぱなしだな。とため息をついて、ヘイゼルはコーヒーを飲みほした。
 なんだか気持が落ち込んだのが戻らない。そんな格好悪い所をこれ以上好きな人に見せたくないし。そう思ってヘイゼルもまた帰り支度を始めていると、もうお帰りですか?とアオイが少し驚いた様子で声をかけてきた。
「もうお帰りですか?」
「はい、御馳走様でした」
そう言ってヘイゼルが会計を済ませると、アオイは少し考えるようにヘイゼルを見つめ、それから壁にかかった時計に視線を向けた。
「それじゃあ、ヘイゼルさん。私のお散歩に付き合ってください」
思わぬ言葉に、へぇっ、とヘイゼルは変な返事をしてしまった。

 日が延びたとはいえ既に日の落ちている時間。こんな夜に散歩なんて危なくないのか。と心配したヘイゼルの視線に気が付いたのか、大丈夫。とアオイは笑った。
「マロが一緒に来てくれますから」
ね、とアオイが声をかけると先日この店にやってきたマロが、足もとに寄って来て、こくん、と頷いた。
 じゃあ行きましょうか。と手早くエプロンを外して小さなカバンを手に持ってアオイが声をかけてきので、はい、とヘイゼルも戸惑いながら頷いた。二人で店の外に出ると、いつの間にか霧雨は止んでいた。湿度の濃い空気が周囲に満ちている。まだ夏には遠いのか、少し肌寒いような空気にアオイがまだ少し早いかな。と小さくつぶやいた。
「早いって、何がですか?」
二人で並んで歩き出しながらヘイゼルが問い掛けると、ホタルです。とアオイは言った。
「そろそろ時期なんじゃないかな。と思って」
その言葉に、ああ、小さくうなずいてヘイゼルもまた、空気の様子を窺うように中空を見上げた。
 そういえばそろそろ時期だけど。今年はこの街にホタルはやって来るのかな。そう思いながらヘイゼルはゆっくりと歩いた。




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