Nicotto Town



森乃福郎『太閤の猿』その1

まあ拍手はその位で!・・

“何をくよくよ、川端、やなーぎ~~” あのスナック行ってカラオケ歌ってる訳では御座いません。 これはだいぶ昔の、明治の時分の流行歌で御座います。 一片歌いますが・・宜しいですか? 

“何をくよくよ、川端、やなぎ~、焦がるる何としょ、水の流~れ~~を、見て暮らーす、東雲の(しののめの)、ストライキ、去りとは辛いね、てなこーとーおっしゃいましたかね!” 

以上で御座います。 昨日稽古した時にはもっとええ声が出てたんですが、今日はちょっと悪い方の声になってしまいました。 これはあの、御年配の方は御承知やろと思いますけれども、東雲節と言いまして明治32年の12月に名古屋の朝日新聞に、とある遊郭が有る、しののめ楼と言う、東の雲の楼で東雲楼と言う遊郭が有りまして、そこへこう、まあ務めてらっしゃったと言いますか、それを仕事としてらっしゃいました女の方、いわゆるあの春を慕いてと言う、そういう女の方で御座いますが、その方々がストライキをおやりになった。 それでこの歌が出来たという事になって居ります。 で、東雲のストライキと言う言葉が入ってますわね、えー。 ま、一説にはこの熊本の方の東雲楼と言うところから出たという、そういう解釈も御座いますけれども、明治32年と言いますから1899年で御座います。 明治30年代には女性を解放する運動が高まって参りまして自由廃業運動なんてのが御座いまして、でその時にそのそういうストライキが有ったんで、それが歌に成って流行歌として演歌師がバイオリンなんかを弾きましてこれを歌とおたんですな~、全国に広がりました、これが東雲節。

まあ今私しゃべって居りますが、落語という感じ、しまへんやろ? 何か大学の教授の講義聞いてるような・・実はこのー、東雲節がその時に出来たと言いますが、歴史を調べてみますともっと昔にこの歌の原点、ルーツが御座いました。 歴史探訪で御座います、日本歴史の謎で御座います。

今日は・・失礼ながらそう言った話を申し上げます。 (あっはっは!!) “あはは”て何でんねん! 気に入らんですよ、私は! そりゃあねー、落語にはその滑稽話ゆうて、“わぁ~”とこう笑うの有ります、ね! そうかと思うと人情話、情のこまやかさ、ね! 人間の気持ちの機微、そう言うの表したんが有ります。

ところがまた別の分野で落語をお聞きになった方が、「あ~、今日はたくさん知識を得た、勉強になった、いや~、これからの人生の為にこんな素晴らしい事は無かった!」 こうお思いになってお帰りになるという、そういう話も御座いまして・・

だから今日は歴史の謎、流行歌の原点を探ると言う事ですから、もうあのー、ガチャガチャガチャガチャ笑いなはんな、宜しな! 人間はこう口ばかり開けてて笑ってるとアホに思われます、ねー、やっぱ真剣に聞いて下さい、ね! もし途中でくすくすとでも笑ろたらその場で退場ですよ、分かってますね?

ま、そう言う事でこの東雲節の原点と言うのは、歴史を遡ること、昔で御座います。 大阪城の主と言うたら豊臣秀吉公で御座います。 この太閤殿下としてこれはもう大変ご威勢が盛んで御座いまして、でその太閤殿下の元に仕えて居りましたのが、堺の鞘師、刀の鞘を作る人でんな、曾呂利新左衛門(そろりしんざえもん)と言う方・・こりゃあご存じでしょ、トンチ頓才が効く、頭の回転が速い、御伽(おとぎ)の衆として、つまり太閤殿下の話し相手としてお城の方へ行っておりました、ま中々の御寵愛ぶりで御座います。 この新左を秀吉公が・・

「これ、新左!」 『ははぁ!』 「あ~、世にはへつらうと言う事が聞くが、それはその・・良き事か、悪しき事か? どうじゃな?」 『ははー、申し上げます。 世にへつらうという事は下世話で申しますと喉元に入ると言う事で御座いまして、いわゆるおべんちゃらで御座います。 あー、これは悪しき事で御座りまする。 武士と致しましては忌(い)むべき事で御座います。』 「そうか! では新左はへつらわんな?」 『へつらいません!』 「そうか!・・うー、世情では余の顔が猿に似ておると言うが、それは誠か?」 『へへへーっ!』

さぁー何ぼ御べんちゃらでも、えー!ねー? そ、真実をこうゆおう(言おう)と思っても目の前にあんた猿そっくりのが居りまっしゃろ、猿面冠者と言われた秀吉公ですから、だから、『えー、その通りよう似ておりますわ』っと、これ言われへん! さぁー、どうするか!

(その2へ続く)

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2009/05/13 22:24
猿ねぇ~w うはははは   サー困ったね!



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