Nicotto Town


三蔵外伝「太陽の破片」


阿修羅像を、観て・・・前編


 国立は首痴漢で、興福寺の「国宝 阿修羅展」を観ました。
 生きてるうちに観れて幸せです。これは、素晴らしいです。

 興福寺西金堂は、平城京遷都と興福寺造営の中心人物だった藤原不比等(ふじわらのふひと)の娘で、後に聖武天皇の妃になった光明皇后(こうみょうこうごう)の発願によって造営されました。亡き母の一周忌の供養のためで、734年に完成しています。作者は百済から渡来した仏師・将軍万福(しょうぐんまんぷく)であったことが分かっていて・・・興福寺は実に1200年に渡りこれらの像を守ってきたのです。

 この阿修羅像を含む八部衆と、釈迦十大弟子像などは脱活乾漆造(だっかつかんしつづくり)と呼ばれる技法で、粘土で造形した上に麻布を貼り漆で塗り固め、後に内部の土を取り除き、彩色を施しています。当時漆は米の10倍以上の値段がするとても貴重なもので、西金堂造営経費の1/5を漆が占めるほどだったとか。これだけの群像を成せたのも、皇后という立場であったこと、そして亡き母への供養という強い思いによるものだったと思われます。

西金堂の造像は、『金光明最勝王経』(こんこうみょうさいしょうおうきょう)の「夢見懺悔品」(ゆめみさんげぼん)に描かれた場面をもとに群像で再現されています。経文によれば、お釈迦様の弟子の妙幢菩薩(みょうどうぼさつ)が説法を聴いたその晩に見た夢に、光り輝く金鼓(こんく)が出現し、その回りにたくさんの仏や群衆が集まり、罪障を消滅させる力を持つその金鼓の響きに耳を傾けたというものです。その時の表情が八部衆や十大弟子の造形に表されています。展覧会のイヤホンガイドでは金鼓の音を聞くことができます。

 阿修羅像の展示スペースへの入口にはスロープが設けられ、仏像と同じ目線から眺めることができるようになっています。阿修羅は153センチとそれほど大きくないので、特に初めて対面される方には、意外に思われるかもしれません。阿修羅像を遠くから見ると顰めた眉が強調されて悲しい表情に映りますが、近づくにつれだんだんとそれが消えていきます。
 近くで見つめると、憂いや悲しみ憤りを感じさせる表情をしています。3面とも顔が違っていて。正面の顔はは、やはり少年に見える・・少女にも・・・1番はっきりと悲憤の表情が見られ、左の顔は幾分ふくよかで、少女っぽい、無表情に見つめる印象、悲哀が強く。右の顔は、男女両性、悔やみ悲しみが見える・・・金鼓の響きに耳を澄ませたことで、争いを止めると同時に、内に秘めた懺悔の気持を表わしているように思います。

 上記由来は、残された資料から学者達が綿密に調べて定説として記載されています、これらの像の由来ですが、
 私が観て見たいと思った理由は、なぜ、この阿修羅像はこのような憂いを含んだ童子童女のような姿で創られたのか?この造型は、どんなものからインスピレーションを請けて作ったのか・・・この1点のみです。
 作られた当時の世評は暗く、飢饉や災害で、庶民は塗炭の苦しみを味わってる時代だったらしい、後に和辻哲郎が『古寺巡礼』で「その作品はうまいけれども小さい」と評したことは良いことである。人間と同じ高さで地獄に寄添っている。司馬遼太郎が『奈良散歩』で「心の器が幼すぎるために、慈悲にまで昇華しない」と述べたと・・・ヽ(´―`*)ノ フッ司馬遼太郎じゃあ、そんなもんだって・・・

 私がこの阿修羅像を観た時、戦火で焼け野原になった被災地の真ん中に立って。空に向かって合掌する姿を想像しました。「なぜ、この様なば事をするのか。これだけの犠牲を払ってなにを得るというのか」・・と神に問いかけている姿です。
 少年王という事では、古代エジプト第18王朝のファラオ・ツタンカーメン(Tutankhamun、Tutenkh-の面差しはこうであっただろうと・・・父アクエンアテンの政策を大幅に覆したが、即位した時点でまだ年端のゆかない少年であったことがわかっており、アメン信仰復活やその早い死について様々な推測が語られているファラオ。若くして太陽王になってしまった、彼の無力さと悲憤・・・

 また、四隣から圧迫をされていたマケドニアの王位についた、太陽王と言われた若き日のアレクサンダー

 さらに、興福寺西金堂造営から、400年後に源義朝と常盤との間に、義朝の九男として生まれる、後の九郎判官 義経・・・この人物の出現を予告していたのでは?と私は、勝手に思うのです。

        ((【・:*:・つづく・:*:・】))




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