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ジュンチャン


ジュンチャン世界を巡る 第102回はモーリタニア

 モーリタニアはアフリカ北西部に位置する共和制国家で、北西に西サハラ(サハラ・アラブ民主共和国)、北東にアルジェリア、東と南にマリ、南西にセネガルと国境を接し、西は大西洋に面しています。

 首都はヌアクショットで2015年の人口は約406.8万人、アフリカ世界とアラブ世界の一員であり、アフリカ連合とアラブ連盟に加盟し、またアラブ・マグリブ連合にも加盟しており、広義のマグリブ諸国に含まれます。

 国民の40%がムーア人(アラブ人とベルベル人の混血)と黒人の混血、あとの30%ずつがムーア人と黒人です。

 国名はアフリカの地中海岸に位置したベルベル人の古代国家マウレータニア(現在のアルジェリアとモロッコ)からとられています。

 この国の歴史ですが、8世紀(4世紀との説もある)ころから、国土の南東部に残されたクンビ=サレーを首都として、ガーナ王国が繁栄しました。

 ガーナ王国は、セネガル川上流のバンブク周辺から産出される金とサハラ砂漠の岩塩から採取される塩、北方からの銅製品や衣服、装身具などの各種手工業製品の交易路を押さえ、その中継貿易の利で繁栄したのです。

 このようなサハラ越えの隊商交易の利を押さえようとしたムラービト朝に1077年に滅ぼされるまでその繁栄は続きました。

 世界遺産にもなっているシンゲッティ(シンキート)、ウアダン、ティシット、ウアラタの隊商都市は、ガーナ王国と並行して発展し、ガーナが滅亡した1112世紀にも繁栄を続けました。

 19世紀末には南のセネガルを植民地化したフランスの進出が始まり、1904年には全域が植民地化され、フランス領西アフリカの一部となったのです。

 ただしモーリタニアには都市らしい都市が存在しなかったため、首都はセネガル植民地北部のサン・ルイに置かれていました。

 アフリカの年といわれた1960年の1128日に、アフリカ諸国の独立が進む中で、モーリタニアは独立を達成しました。

 その後、ダッダ政権、タヤ政権、アブダライ政権、アブデルアズィーズ政権と、軍事クーデター等による政権交代が繰り返されています。

 この国の地理ですが、アフリカ大陸の西側に位置するモーリタニアは、おおむね平坦で日本の約3倍の国土面積を持ち、全土がサハラ砂漠に位置するため、国土の90%以上が砂漠であり、中央部にリシャット構造と呼ばれる同心円状の特徴的な地形があり、南部のセネガル国境を成すセネガル川流域や点在するオアシスが僅かに乾燥を免れた地域となっています。

 大西洋岸とセネガル川流域には平野が広がり、内陸部は高原となっていて、国内最高峰は北部のズエラート付近にあるケディエ・エジュ・ジルで、全山が磁鉄鉱からなるためコンパスを狂わすと言われています。

 モーリタニアは国土のほとんどが砂漠に覆われ、可耕地は国土のわずか0.4%に過ぎないため、農業は南部のセネガル川沿岸および各地のオアシスで行われるにすぎない。牧畜は古くからのこの地域の主産業であり、農業よりもはるかに大きい規模を持つが、輸出はあまり盛んではない。

 経済ですが、モーリタニアの主産業は鉱業であり、なかでも北部のズエラットで採掘される鉄鉱石が経済の柱となっています。

 2014年度には鉄鉱石輸出は輸出の39.9%を占めて最大輸出品となっていて、このほか金が輸出の15.1%、銅が輸出の10.1%を占めるなど、鉱業がモーリタニア経済に占める割合は大きいのです。

 鉱業と並ぶモーリタニア経済のもう1つの柱が水産業で、2014年度には魚介類輸出が輸出の14.7%、これと別枠でイカ・タコ類が10.6%を占め、おおよそ輸出の4分の1が水産物で占められています。

 日本が輸入するマダコの主要輸入先の一国で、特にタコは日本で食べられているタコの3割(他、日本30% 中国11% モロッコ10% その他19%を占めています。

 ここから、モーリタニア観光に入ります。

 まず、シンゲッティです。

 ここはモーリタニア北部のアドラル台地上に位置するクサールと呼ばれる古い交易拠点の一つで、かつて「シンゲッティのくに」と呼ばれたモーリタニア最大の見所です。

 13世紀にサハラ交易ルート上の拠点として創建され、地中海とサハラ以南アフリカをむすぶサハラ交易の拠点として、一時は35,000頭のラクダで仕立てられたキャラバンの出発地になったほど栄え、またイスラムの研究機関や大学を擁する学問の町としても知られていました。

 地方の寒村となった現在、町を囲んでいた本来の城壁は数百年のうちに失われてしまいましたが、旧市街の大部分の建造物は残っており、エキゾチックな風景や歴史ある手稿の数々が人々を惹きつけています。

 次に、ティシットです。

 モーリタニア東部のタガン高地の麓にある町で、創建されたのは1150年頃のことで、他の交易拠点の町と異なる、灰色~青色をした硬質の石を積み上げた独自の建築様式の建物で知られています。

 美しく石積みがなされたモスクのミナレットや、家々の入り口を控えめに飾る石組みの装飾が見られます。

 質素ですが質実剛健な建築物、他の隊商都市と違って少ない人口、また町の前面に迫る砂丘の荒涼とした雰囲気が、隠者の町を思わせる独特の雰囲気を漂わせています。

 最後に、バンダルガン岩礁国立公園です。

 世界遺産のひとつですが、こちらは自然遺産です。

 首都ヌアクショットと第2の町ヌアディブの間、ティミリス岬を中心として大西洋岸に広がる、面積12000の国立公園で、その面積のおよそ半分は海域となっています。

 沖合の暖流と寒流がぶつかる潮目に多くの魚が集まり、それを目当てに鳥類や海棲哺乳類も集まります。

 西アフリカで最も重要な鳥類の繁殖地・越冬地で、108種を超える鳥類、およそ700万羽の渡り鳥が飛来し、そのうち300万羽がこの地で越冬するといわれています。

 クロアジサシ、オオフラミンゴ、モモイロペリカン、シロペリカン、セグロアジサシなどが見られます。またシャチやナガスクジラ、その他のイルカを含む海棲哺乳類のうち、絶滅危惧種のチチュウカイモンクアザラシは約100頭の生息が確認されており、これは全世界の生息数の約25%といわれています。

 マグレブの国々は今回で終了、次回は偉大な古代文明を築いたエジプトを紹介します。

 引き続き気楽に遊びに来てください。( ^)o(^ )

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2022/07/16 06:57
もみじさんへ
シェイクスピアのオセロを見たことが無いので、機会があれば見てみたいです。
ところで、釣り師の中にいるムーア人は、スペインをその時々に支配したイスラム教徒やアフリカ系の人々となります。
 西暦711年に、ベルベル人指揮官ターリク・イブン=ズィヤードが率いる北アフリカのイスラム軍が、イベリア半島(現在のスペインとポルトガル)を占領し、アル=アンダルスと呼ばれるようになったこの土地は、文化と経済の中心地として栄え、教育や芸術、科学が花開いたのです。
 その後イスラム国家の力が衰えると、ムーア人による統治を快く思っていなかったキリスト教徒が侵攻を始め、数百年にわたってキリスト教徒はイスラム教徒に戦いを挑み、徐々に勢力範囲を拡大していき、この運動が完結したのが1492年、「カトリック両王」、フェルナンド2世とイサベル1世がグラナダ戦争に勝利し、スペインがイベリア半島を奪回したのです。
 ムーア人はスペイン史の中では非常に重要な人たちで、彼らがいなければ現在のようなスペインはありえませんでした。
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2022/07/16 06:42
青魚岩太郎さんへ
鳥取砂丘でラクダに乗ったことがありますが
夏の旅だったので、フラフラになりました( ^)o(^ )
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2022/07/15 09:49
ムーア人と聞けば、シェイクスピアのオセロを思い出します。
15年ほど前に蜷川幸雄氏の「オセロー」を観に行きました。
顔を茶褐色にしたオセロー役の俳優さんが圧巻過ぎて、舞台の目玉だったヒロイン役の女優さんの素晴らしい演技が記憶から吹っ飛ぶほどでした。
この俳優さんは誰?と当時調べまくったら、舞台ばかり出演されている方でした。
その数年後、テレビにボツボツ出始めて、今ではCMでよく見かけるように!
吉田鋼太郎さん、あなたのオセローは凄かった!
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2022/07/15 08:07
ラクダで砂漠観光は
個人的にはカンベンしてほしいかも^^



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