1999年4月21日
- カテゴリ:30代以上
- 2012/12/13 18:30:32
訃報のブログばかりで申し訳ない。
千葉に住んでいた時の友人が逝った。38歳。先天性の遺伝子の病を持って生を受けた彼だったが、ムチャクチャ明るく、サービス精神に富んでいた。
トランプをやる度に負け、200円巻き上げられた。おかしいなと思い後ろから絞め技をかけてやったら、イカサマだったとバラした。そんなことがあっても、憎めない奴だった。
1999年は、オレにとっても、奴にとっても、いい年だった。
「Aちゃん、野球見に行きまちょ」
「オウ!」
バリバリのロッテファンだったオレは、松坂大輔のマリンスタジアムデビュー戦に、奴と出かけた。
迎え討つは、もちろん、永遠のロッテエース、ジョニー黒木だ。
外野スタンドは超満杯、打倒西武、打倒松坂の熱気に、知らないで1塁側スタンドに来てしまったサラリーマンが焦っている。
オレは双眼鏡持参。試合前の練習で、スーパールーキーを観察した。
「オイ、松坂、完全、野球の身体だぜ。マジで高卒かよ」
奴はオレの双眼鏡を奪って見、こんなことをほざいた。
「お尻、プリプリでちゅね」
「○○ち(奴のニックネーム)は、ヘンタイか」
試合は稀に見る投手戦。オレは生で100試合はプロ野球を見ているが、間違いなく最高の試合だった。
結果。ジョニーは勝った。
松坂が「リベンジします」という、あの有名なひとことを言ったのもこの時だった。
1999年、秋にはMAXの名曲、『一緒に』が流行ったっけ。
奴とバカをやっていたのも、その頃までだった・・・。
38歳か。
どうなんだろ、奴は奴なりに、まわりのみんなを楽しい思いにさせながら生きたんだから、そう、早過ぎるってこたあ、ねえやさ、な。
おそらく、よ。
お葬式の準備に疲れて、わたしが転寝していた時に夢枕に立ってくれたのですが
ちゃんと生きた人しかちゃんと死ねないのだと教えてくれました。
以下は彼女の言葉です。
今はもう誰の妻でも母でも娘でもなく、ただ愛そのものになれた。
電車に乗らなくてもこうしていつでも貴方に会える。
生きているのは不便。
泣いているお父さんはかわいそう。
でも、わたしはどこも痛くないし、ここには何もないけどすべてがある。
職業柄多くの死を目の当たりにしてきた義母は、生前は死後の世界などない!と豪語していたのですが
出来の悪い娘を見かねて出てきてくれたのかなって感謝しています^^
今は、光に包まれて暮らしているそうです。
死ぬのにも資格があるゆえに、今もわたしは生きているのでしょうね^^
いつかまた会える日まで、楽しいことを沢山して笑い話できるといいなあって思っています。
交通事故です
学生の頃
少女漫画のようにはしゃぎ合ったものです^^
今も彼女のことを思い出します
亡くなってもなお
私の思いの中で生きているのです
楽しい思い出を語ってもらえるのは幸せなことだと思います。
共に生きた時間を語るのは…悪くは無いってね☆
そういやあの時はああだったな。とか、こんなことも言い合ったっけ。とか。
いづれ皆、あちらへと旅立っていくのだから。泣き顔なんざ似合わねぇ…涙流しても笑って見送ってやるのが一番彼も喜ぶんでは…ないでしょうかね。