お祖父ちゃんに逢えたかなぁ…
- カテゴリ:人生
- 2025/03/17 14:57:07
3月15日〜16日は「うさフェスタ春2025」でした。足元の悪い中、お越しくださった方々、作品をお迎えくださった皆様、ありがとうございました。出展者・関係者の皆様、大変お疲れ様でした。
次回の『幸うさぎ』のイベント出展は4/6に福島市アクティブシニアセンター「アオウゼ」で開催される「うさぎふくふく祭り」です。
さて、ここから先は、呟きにもちょろっと書きましたが、イベント出展の裏で起こっていた家族の話になります。健忘録的なニュアンスも含めて書いていきます。(カテゴリ的に、家庭なのか、人生なのか、迷いました(ー ー;))
私は幼少期から両親と妹、母方の祖父母と、ずっと同居していました。(20代の頃、数年は会社の事務所に間借りして半一人暮らしをしていた時もありましたが…)
今から、約25年前、祖父が急性骨髄性白血病に罹り(70代の若さで)亡くなりました。
祖父母とも昭和2年生まれで、戦中戦後を生きた人で、その当時では珍しい恋愛結婚で結ばれた2人でした。結婚後も仲睦まじく、大きな喧嘩をした事は無かった様に思います。
祖母は祖父の生前から、甲斐甲斐しく世話をしてよく尽くしていて、祖父は特攻隊の逝き遅れだと言いながらも技術職として働いていた地方の企業から関東圏にある大企業から数倍の月給で引き抜かれた様な人でした。
祖父が亡くなった後、1年間は祖母一人で月命日に電車や新幹線を乗り継ぎ墓参りに行っていました。
それをやり終えてからの祖母は生きる希望が失われた様で、毎日の様に祖父に迎えに来て欲しいと言っていました。
祖父が亡くなって15年後くらいから徐々に祖母の認知機能が衰え始めてゆきました。
認知症は患っていたものの、家族の事は覚えていましたが、ここ5年くらい前からは、白内障になり、手術を嫌がっていたので、視力がかなり落ちていて、聴力も衰えていたのに、補聴器を付けるのを嫌がっていたので、耳もよく聞こえなかったと思います。
足腰はしっかりしていましたが、排泄が上手く出来ず、紙パンツを利用しつつ、介護施設のデイサービスを利用していたものの今年の1月末くらいまでは自宅にいました。
ところが、誕生日である2月2日を迎える数日前から急に食欲を無くして、体力が落ち、容態が悪化したため、入院して点滴をしてもらったら元気になりました。
白髪の方が多かった髪の毛も黒髪が増えて来たのですが、相変わらず、食欲はないまま、1ヶ月が過ぎました。
食事をしないので、体力は落ちて、自分では歩けなくなってしまい、ホスピスの様な介護付きの老人ホーム(以後、ホスピスと記載)に空きが出たので、先週そちらに移りました。
2月2日も私はイベント出展があり、心配をしていたのですが、なんとか復活したので、今回のイベント期間も乗り越えられるだろうと思い、15日は通常通り出展していました。
そして、1日目が終わり、帰りの電車に乗っている時に母から祖母危篤の連絡が入り、その足でホスピスに向かいました。
ベッドの上の祖母は呼吸もままならなくなっていた様で、酸素を送るチューブを付けられいましたが、声を掛けて肩を叩くと目を開けて返事をしてくれている様でした。
家族が集まると、安心したのか顔色も良くなり、呼吸も落ち着いて来たので、2、3日はこの繰り返しだろうという事で、リングの修理依頼を受けていた事もあり、 22時頃、一旦、帰る事にしました。
そして、16日早朝、4時半頃、再び、ホスピスから母に、いよいよかも…と電話があり、家族みんなでホスピスに向かいました。
今度は呼びかけて肩を叩いても、たまに眉毛を動かすだけで、目は開きませんでした。
荒い呼吸になったり、静かな呼吸になったりを繰り返していました。そうこうしている間に、最終日のイベント開始時間が迫って来たため、荷物をそのままにイベントを欠席する訳にもいかず、「お祖母ちゃん、行ってくるね」と声を掛けて、私だけホスピスの部屋を後にしました。
外は冷たい雨が降っていました。
私が部屋を出て10分後、祖母は眠る様に息を引き取ったそうです。
祖父が亡くなって、約25年、ずーっと迎えに来て欲しいと言っていた祖母でしたが、祖父が亡くなった時とは親子ほどの差になってしまいました。果たして、祖父は祖母と分かるだろうか…
「お父さん(祖父の事)、あっち(あの世の事)で、いい人作ったから、私の事、迎えに来てくれないのよ!毎日、お願いしてるのに…」と常々言っていた祖母でした。ずーっと、愛していたんだろうなぁ…と思うほど、愛の深い祖母でした。
祖父母と私の3人が卯年だった事も『幸うさぎ』が生まれたキッカケの一つでありました。
元気な時に、祖母もうさフェスに来てくれて、楽しんでくれていました。
そんな卯年の祖母が、うさフェス最終日に旅立つとは、祖母らしい最後でした。
やっと、お祖父ちゃんに逢えるね。
今まで、ありがとう。
余談ですが、火葬場が混雑している様で、葬儀が出来るのが、10日後になってしまいました。
葬儀代に含まれているドライアイス代は2日分までで、後は実費請求だそうです。
団塊の世代が後期高齢者になったこの先10年は、こんな状況が続くのでしょうね…
葬式代100万円を補償する保険が流行っていますが、家族葬で質素に節約したつもりですが、なんだかんだで、150万くらい掛かるそうです。
保険金足りないじゃん_:(´ཀ`」 ∠):
イベント中は、祖母が亡くなったと言う実感がなく平然としていたのですが、この日記を書いていたら、涙が溢れて来てしまいました…。
実の両親と一緒に暮らした期間は20年そこそこで
今の義理の父と母との同居の方が長くなってしまいました。
うちは、昭和3年と、7年生まれの祖父と祖母で
こちらも当時では珍しい職場恋愛だったのですよ。
二人とも当時郵便局に勤務していてそこで仕事を易しく教えてくれたおじいさんに
好意を持った母と
綺麗で働き者だった母に一目ぼれした父が結婚したのです。
勿論、結婚後は、父が異動させられましたがね。
母は定年まで郵便局で働きました。
その後義理の父は、今、96歳で今でも元気にしております。
認知症状はありませんが、耳がかなり聞こえない為
昨日市民病院の耳鼻科で診断書を受取ってきましたので
今日、市役所に行って聴覚障碍者の認定の申請に行ってきます。
ご心情お察しいたします。
うちは、実の両親はとうに他界しまして、父は83歳で病死でした。
母は父が亡くなったあとも元気にしておりましたが、認知症状が出てきたころは
80代後半になった頃。
介護士さんに自宅に訪問で来ていただいていましたが
86の時にデイサービスに行くことになり、お試しで行って、入浴させてもらい帰宅しました。
2回目にまたデイサービスで入浴してもらいに行った後
3回目のデイサービスで入浴して帰宅後に自室で休んでいたのですが
ふと気が付くと、息をしていなかったのです。
まさかデイサービスに3日通っただけで死んでしまうだなんてこと!!
全くの突然のお別れで本当に信じられませんでした。
死因は「腹膜がん」です。
癌だと分かった時にはもう末期で、手の施しようが無いと言われました。
ホスピスも当たりましたが、今のははの状態では入居(入院)は無理ですと。
亡くなったのは約2年前です。今も毎月の月命日は実家で法要があります。
ご祖母様の突然の悲報に接し、謹んでお悔やみ申し上げます。
結婚後も仲睦まじく、大きな喧嘩をした事は無かった、素敵なご夫婦ですね。
認知症を患い、白内障、聴力も衰え、排泄が上手く出来ず、長きにわたる、誰もができない、ご自宅での介護、本当にお疲れ様でした。
愛の深いご祖母様だったことが伝わりました。
ずっと愛し続けていただけてご祖父様は幸せですね。
3人が卯年だった事も「幸うさぎ」が生まれたキッカケの一つだったのですね。
元気な時に、ご祖母様もうさフェスに来てくれて、楽しんでいる姿、素敵な思い出ですね。
2月2日誕生日を迎えられたこと、卯年のご祖母様が、うさフェス最終日に、ご家族様と会えたこと、きっと安心して旅立たれたことでしょう。
ご家族様に見守られ安心して幸せだったと思います。
ご祖父様と逢えますね。
火葬場が混雑している、葬儀が出来るのが、10日後、葬儀代に含まれているドライアイス代は2日分までで、後は実費請求、大変驚きました。
人口の多い都市部で起きている「火葬待ち」、深刻化していますね。
家族葬で質素に節約しても150万円くらい掛かる葬儀費用は高くて困ります。
共に過ごした思い出等、在りし日の思い出は尽きません。
哀しみの中でさぞお辛いと思いますが、どうぞお体に気を付けてお過ごしください。