Nicotto Town


てらもっちの あれもっち、これもっち


技術と科学と言葉

科学というのは、自然現象を数式とか言葉とか、人間の分かる形で明らかにすること。けれども、実際の自然現象はそもそもあるわけで、「発見した。」「判明した。」「解き明かした。」というのは、それを人間に見える形にしただけで、そもそも、そこにある。

 そのパソコンやスマートフォンや空気の中にだって、相対性理論はある。究極的状況じゃないから見えないだけだ。
 宇宙の法則に沿って、宇宙は動くのではなく、宇宙が動いて、そこに法則性を人間が見つけて、法則として記述しているだけ。


技術というのは、自然現象を科学や知識を使って人間の都合のいいように未来を変えていくことだ。
 ここで間違えちゃいけないのは、同じように自然現象はそもそもあるわけで、人間ができるのは、自然現象の方向を変えているだけということ。

 究極的には、人間が自然を文明に作り変えているわけではない。


心理学やら哲学やらも上記と同様である。
絶対的なものではなく、すべては相対的なものだ。

数学でさえ。

液体中で進化した知的生命体が、塩分濃度の分布から作り上げた抽象、定量的数学体系があってもおかしくない。

僕たちは、ものの物理的境界=原子間力を識別できるから、0と1と2を区別したに過ぎない。

存在。非存在でさえ、生と死からくるメタファーではないかとさえ考えてみる。

ウィトゲンシュタインは言葉の相対性に着目して、それまでの哲学的議論を言葉の定義の不整合だと喝破した。

お見事だと思う。でも彼の本の中でも言葉の不整合があったように思う。

ビジネス界では、ロジカルシンキングの次に、ラテラルシンキングや、
塾考、発想などが必要という人もいう。

それこそがクリエイティブであると。

では、その奥底にあるのは何か。
自分の心の奥底から湧き上がってくる発想はどこから来るのか。

自分は野生ではないかと思う。

スピリチュアルに走る気はない。

自分自身が宇宙=現実の一部の存在であり、自然現象に沿って生きる存在であり
自分が本当に「正しい」と思えることが、宇宙にとっても「正しい」 または「無理のない」ことじゃないかな。

だって、人間の反応系は記憶により構成されるわけだし、記憶とは、これまでの現実そのものな訳だからさ。未来に対する正しいフィードバックがされるはずだよ。言葉によって構成されたフィードバックである「論理」よりもね。

ああ、諸君。
「社会」と「自然」とか「人」と「地球」は異なる。
という考え方もあるよね。

でも その対立や境界スキーム自体が、人が勝手に考えたスキームなのだよ。
過去の「原発事故」を否定するのであれば、「隕石落下」も否定すべきだし、そうであれば、その結果、生まれた自分たちを否定することにならないかな。



なぜなら、自分の心の奥底の記憶とは、自分が見て聞いて嗅いで、感じてきた「現実」そのものだからである。



非公開にしたもの。。。。(なんとなく傲慢かな。と思って)




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