Nicotto Town


てらもっちの あれもっち、これもっち


生きる。死ぬ。

すでに寿命は半分過ぎたところにいて、

そりゃ、死ぬことも考えます。

その前に、生きることとは何か。なんていう難しい課題があるわけだけど、
死ぬこと。なんて誰も知りはしないから、かなり難しい。
僕だって死んだことはない。

死ぬことの反対側に生まれることがある。
生まれる。というのは出産をベースにするのだけれど、
死ぬことを考える上では、その前の発生の状態まで遡らなくてはならない。

自我と呼ばれるものは、たぶん、言葉を覚え始める
幼児期に生まれるもので、でも、それまでも
動物的な反応集合としての自我的な何かはあるのだろう。

記憶の奥底に、多分、胎内記憶はあるのだろう。
そこにも、自我的な何かはあるはずで、それは自分と言える何かなのだろう。

さらに遡れば、イモリのような自分がいて、魚のような姿の自分がいる。
母親から養分をもらい、生きることだけが目的、動物的な自分がいたはず。
その時の記憶は明示的にはないけれども、奥底に「生きる。」という
動物的本能としての自我的な何かとして存在するはずだ。

そして、受精があり、卵子の自分は受け入れるものとして、精子の自分は多様性と競争的な進化の本能として存在する。

 さらに遺伝子の中の情報を離れれば、父親と母親の恋愛、ときめき、交わし互いを見つめ合う視線の眼差しの奥底に自分があるのだろう。
 もちろん、自分の記憶として、そこまでは辿れない。

だが、死が生の裏返しであれば、その記憶の奥底に何かがあるのかもしれない。

 さて、死。

死とは、そこに戻っていくことなのだろう。

死ぬ時。

言葉として論理思考をもつ自我が崩れ、動物的な生がなくなり、細胞が一つ一つなくなっていく。生きていた間に周りに与えた影響だけがゆっくりと残り、広がり、薄まっていく。

自我はなくなる。自分の意思と呼ばれる自我はなくなる。

イワシの大群の中の、一匹がサメに食べられること。

一匹の意思はなくなるが、イワシの大群はサメの存在に気づき、方向やスピードを変え、生き残る。

一匹は死に、イワシの群れは生きる。

自分は死ぬが、周りの人々は生き残り、自分の影響だけが、その中で生きていくのだろう。

素敵に生きたい。

そして死ぬ。

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2017/04/24 18:08
Kobitoさん

コメントありがとうございます。
そうなんですよね。昔の祖先、ミトコンドリアイブくらいまで行くだけで、人類、みな同族ですもんね。
安倍さんとも、金さんとも、サッチャーさんとも遠い親戚ですし、もちろんKOBITOさんとも。

生命の起源まで行っちゃうと、もう、クラゲも、チーズの酵母も、人参だって遠い親戚で、共食いしまくりなわけで、、、、
ビッグバンまで行くと、みんな全部一緒だったんだから、、、、、あなたが私で、これがそれ、あっちがここ。手のひらは太陽。。。。。。。

行き過ぎですね。
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2017/04/24 09:36
お早うございます。
命って、ず~っと昔の祖先までつながっているから、すごいですよね。
辿っていくと、生命の起源まで行けてしまう。
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2017/04/24 06:43
hiro☆さん
おはようございます。

コメントありがとうございました。
人は群れで生きる種族である。というのは事実だし、群れで生きたから人になったのだと思います。

周りの人と共に、一歩一歩、生きること。

それだけで、結構、素敵なことじゃないかな。と思っています。
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2017/04/23 23:19
ブログ広場から来ました。

私も人生の山の峠を越え、そろそろ行きつく先を考えるようになりました。
私も、誰かに素敵な物を残して行けたらいいなと思います。



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