Nicotto Town


小説日記。


夢飼い。【21】





Story - 3 / 1



泳げば泳ぐほどに沈んで行く、この海は深すぎる。
海面なんてとうの昔に無くなって、ただ広がるのは無限の底。
先も無い。後も無い。真っ暗で広い。

泳ぐのは大変だ。

気を抜くとあっという間に溺れるし、死ぬ。
生き返るのはもっと大変だ。
時には自分一人ではもう泳ぎだせなくて、誰かの力が必要になる。
温かな同情はふかふかの毛布のようで、錆びたカッターナイフのようで。
意味も無く溢れる塩水は、心という名のコップから零れた水だ。
拭き取る布はどこにあるだろう。
倒したコップは起こせば良い。けれど、罅が入ってしまったら直せない。

今の僕は、そんなもの






「————ッ」

色んな意味で、腹が捩れそうだ。
心臓は耳の傍で煩いし、暖房をかけた以上に暑い。いや、熱い。
まるで全身が某白い魔女の杖で一振りされたように動かない。石になった気分だ。馬路で。
1ミリでも動いたら文字通り砕けてしまいそうな気がして、危うく呼吸困難に陥る。
実際苦しいけど。

ちょっとざらつくいぬいの舌がぼくの歯をこじあけて、ごういんにからませる。
なんだこれ。
初めてにしては若干でぃーぷな味わい。
さっき食べたばかりとみえる、苺の鮮やかな甘みが口いっぱいに広がる。
あと、少しだけ血の味。
乾はよく唇の皮をむしる癖があるから。

超至近距離で相手の睫毛が震えている。
僕も倣って目を閉じるべきかと思ったけど生憎身体は脊髄の命令を無視した。

そう、これはキスだ。口付けだ。接吻だ。
どれも一緒か。ごめんなさい。

慌ててるんだよ、悪かったな。
ええい、熱いな!

「——ッぷは」

ほとんど頭を抱えられるように拘束されていた僕は、唐突に乾に突き放される。
長いようで短い初体験はあっさり閉幕した。
どうリアクションしていいものかわからず赤面したまま立ち尽くす僕。
しばらくまともに乾の顔を見られそうにない。
主に口とか。

結局、終止石像の真似をしていた僕はその時の乾の顔を見逃していて、
気づいたら俯いていた。清潔そうな白い床と見つめ合うこと数秒、

「ッぐす、」

姫君の悲しき啜り泣きに耳朶を叩かれ覚醒する。
やけに静まり返った病室に、零れた涙が落ちる音が痛い。
大げさに震え上がって顔をあげると、馬路で泣いていた。

あれ?どうして?

「……、く、ぅう、」

答えがそこら辺に落ちてやしないかなんて視線を走らせる。
当然あるわけもなく視界を横切ったのはテーブルに置かれた皿いっぱいの真っ赤な苺。
あの野郎さっきまでこれ食ってたな。

ちがうってば。

シーツに染み込んだ涙が歪な模様を描いて広がる。
病院着の袖でそれを拭うこともせず、乾はただぼんやりと華奢な肩を震わせて泣いていた。
その視線は僕の足下と床の中間を見つめていて、つまり何も映していない。

そうだ。
こんなときにはとりあえず。

「大丈夫、傍に居るから」

ぎゅっと抱きしめて。
魔法の、言葉を。

びく。
腕の中で再び震えた肩をいっそう抱きしめて、乾の身体から力が抜けていくのを感じた。
僕にかけられた体重はちょっと心配になるくらいあっさりしていて。びっくりするほど骨張っていて。
切なげな、苦しそうな嗚咽が痙攣みたいで。

いまにも、しにそうなかんじがした。

「大丈夫」
「ッぅ、ばか……、ゆぎの、ばが……ぁッ」
「ごめんね」
「ぅぅうううぅ」

何が馬鹿なのかわからないけど。

生暖かい涙が服にじわじわ染み込んでいく。
やっぱり、さっきのは。幻想、だったのかな。
それとも。

今まで見てきた顔、全部が。乾という女の子。

なのかもしれなかった。



*****


さて、連載が遅れてしまい申し訳ございません。
濃密なきっすでお送りします三場面目。
まだ、この二人にお付き合い頂ければと思います。

——それでは、ここまでお付き合い頂いた画面の向こうのあなたに、精一杯の感謝を。

― 糾蝶 ―





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