Nicotto Town


小説日記。


リベレーター(解放者) 【1】

# - peace0


 兄は、雨の日の散歩が好きだった。





 その日も、雨だった。
 雨の日は嫌い。
 水溜りで靴が濡れるから。
 しっぱねが上がって、せっかくの洋服が汚れてしまうから。
 冷たい風が、湿り気混じりに髪の毛をグシャグシャにしてしまうから。
 外から見る家の中が、酷く暖かくこの世のものでないように思えるほど、雨の中静かに歩く自分たちを寄せ付けないものに見えたから。

 どうして、雨の日が好きなのかと兄に尋ねたことは無かった。
 尋ねないまま、終わってしまった。

 硝子に筋を付ける無数の雫を目で追った。
 隣に座る妹は、真っ白な紙に赤いクレヨンで、わけのわからない、絵を描いていた。
 大きな蛇と、大きな狼。
 真ん中に居るのは、兄だったのだろうか。
 妹は、視線に気づくことなく、ずっと、絵を描いていた。

 長い、夢を見ていたのかもしれない。
 覚めなければ、良かった。

 兄に呼ばれた。
 顔を上げ、妹は手を差し出してきて、一緒に駆け寄った。
 兄を挟んで、手を繋いで、散歩に出た。
 雨は嫌いだった。
 でも、兄が好きだったから、雨を好きになろうと思った。

 結局、好きになれなかった。
 一生一緒に、居られなくなるのが嫌だった。

 忍び寄る足音に、似ていたから。
 しとしとと、記憶の海の片隅で、永遠に降り続ける雨の下。
 傘を差した誰かの顔が、どうしても思い出せなかった。

 いつものように、何も言わずに兄は歩いた。
 優しく手を引いて、ゆっくり歩いた。
 二人が遅れて、転ばないように。
 小さな段差に足を取られないように。
 水溜りで滑らないように。

 大きな傘の下で、窮屈そうに兄妹は寄り添った。
 言葉を交わさずとも、それで良かった。
 
 通り過ぎる町並みは、寂れて静かで、いつも、眠ったようだった。
 目を覚ますことは、無いのだろう。

 くすんだ窓硝子の向こう側、目に付いた店の中は、埃まみれだった。
 住む人も、壊す人も居ないまま、朽ちていくのを待つだけの存在だった。

 横断歩道で、青信号を待った。
 ちょっとした不幸だった。
 ちょっとした非現実だった。
 本当にそれを望んている人たちにとっては、取るに足らない、つまらない事故だった。

 安易な死の願望を抱くほど、心も体も成長していなかった。
 なのに視界は、真っ赤に染まった。
 鼓膜は凄まじいブレーキ音に劈かれて、なんだか、良く覚えていない。

 痛くも、寒くも、無かった。
 横たわる妹を、横になった視界に映していた。
 兄の顔が、すぐ横にあった。
 身体が動かなかった。妹も動かなかった。
 兄は冷たかった。目を閉じた横顔が酷く蒼白で、綺麗だな、と思った。

 〝死ぬ〟という言葉の意味さえわからないほど、幼かった。



 兄は、雨の日の散歩が好きだった。
 だから自分も、好きになろうと思った。

「青狼(せら)、いってらっしゃい」

 玄関に出て、靴を履いた。
 背後から聴こえる妹の声に、振り返らずに家を出た。
 可愛らしい鈴の音が、ドアを閉めると隣で鳴った。
 だから手を繋いで、傘を差した。

 雨の日は、嫌いだ。




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