Nicotto Town



No moreナルト One moreちくわぶ



演壇後ろの横断幕を見て首を傾げた方もいるようなので説明しておきます。私は勿論ナルトも好きですが、数十年前彼らが受けた蔑視と迫害を目撃した者の一人でもあります。グルメ評論家のYやグルメ漫画原作者のKらが、ラーメンの画竜点睛としてのナルトに対し、下魚のすり身を漂白し化学調味料と共にこね下らぬ模様をつけただけの賤しい食物としてナルト公食追放運動の先頭に立ち、当時ブームとなっていたラーメン屋からあっという間にナルトの姿が消え、消費量は以前の100分の3にまで落ち込み、黙々と食紅で美しい模様を描き続けていたナルト職人の妻や娘の多くが鳴門海峡に身を投げ大潮が様変わりしてしまいました。悲劇を繰り返してはならない。人気コミックが大ヒットし海外でもナルト人気が高まりインバウンド消費での経済効果も期待できると胸算用した為政者や財界人どもの身勝手な判断でかろうじてナルトは生き残ることができましたが、ちくわぶは未だに孤立無援です。ナルトの悲劇を繰り返すな、ちくわぶをもう一本。会の理念を象徴する言葉として掲げさせていただいた次第なのです。

「グルテンフリー食品を明日の日本を担う子供たちに喜んで食べてもらうことを願う強く美しいシングルマザーの会」を初めとして、ちくわぶへの蔑視、迫害を行う団体は増加の一途を辿っています。更に嘆かわしいことに、ちくわぶ擁護の論戦を張るように見せかけ、あたかもちくわぶをパスタの如く扱う愚劣なレシピを多々掲載した書物まで出回る始末です。古株の会員からは、法規制を訴えてはどうかという提案もありましたが止めました。無意味だからです。ちくわぶ差別の元凶は、明治維新を賞賛し薩長土肥の下級藩士に心酔しこの国が一流国家だと勘違いし続けたままの政治屋ども、持続可能な経済成長への狂信者である旧財閥系大企業や新興IT成金など、国の中枢を担う連中なのですから。

なぜ、という顔が見えましたね。なにゆえ彼らがちくわぶを憎み蔑視するのか。理由は二つあります。戦中の代用食としてフスマの入った粗悪な(名ばかりの)小麦粉で作った雑草入りスイトンを食わされたことを恥ずべき過去と考え、その屈辱を子々孫々にまで伝えようとする連中が国権を握っていることが一つです。もう一つ、安保闘争の中心だった下層賤民が呑み屋で安いちくわぶばかり食っていたため、ちくわぶが反体制の象徴的に扱われてしまったことです。独立国という名の永遠の属国という道を選びその事実から終生顔を背け続ける彼らにとって、ちくわぶは忘れ去りたい屈辱と敗北の(そして真実の)記憶を掘り起こし、アイデンティティの根幹を揺るがす危険な食物としか見えないのです。

歴史とは常に為政者の意に沿う創作物です。ちくわぶを愛好するものですら、ちくわぶが江戸後半に普及したという俗説を信じている。この国の教科書にちくわぶという単語が使われていないのをご存じでしょうか。文化の完璧な破壊です。

例を国文学にとりましょう。『ちはやぶる』という枕詞、あれはかつて『ちくわぶる』でした。一見頼りなく出汁で煮込めば溶けてしまうかのように見えて、二日かけて煮込んでもその姿を留めるちくわぶの姿に深い感銘を受けた平安中期の歌詠みたちが、周囲に流されそうに見えても本質を失わぬ独立不羈の精神の現れとして用い、その強靭さゆえに神の枕詞として用いるようになったのです。

時代が下るとちくわぶの気取らぬ気風は武家階級にも浸透し、末法思想を肯定的に超越する方便としてちくわぶの中央の穴を禅画に描く修行が盛んになりました。生臭坊主がヘタッピな円を描き、力んだ筆で『無』と題している掛け軸を見るでしょうが、あれはちくわぶの本質を上辺だけ真似た偽物なのです。戦乱の世にはちくわぶ一本を抱え都から地方に落ちのびた零落貴族がちくわぶの精神を地元民に伝えます。ちくわぶにはク活用形容詞の「痴し(愚かなることを恥じながらもそうせざるをえぬ心のつつましくひそやかな動きを憂うるさま)」と「侘ぶ」という字があてられ『痴侘』と表記されるようになりますが、これが侘びの起源です。

為政者はあらゆる文学からちくわぶの痕跡を抹消しました。近代文学において特に酷い。漱石の『猫』の原稿では、猫はおでんから浚って咥えたちくわぶの穴に吸い込まれ存在の次の相へと移行するという結末になっていました。井上靖の洪作シリーズでおぬい婆さんの作るカレェのとろみは材料にちくわぶを使ったゆえでした。芥川の『侏儒の言葉』は『ちくわぶの言葉』であり、彼の遺した「ぼんやりとした不安」という言葉前には「ちくわぶの如く」という語があったのです。『雪国』冒頭の長いトンネルとは川端にとってちくわぶの穴そのものでした。こうした改変が国文学の世界だけでも無数にあるのです。

弾圧がここまで過酷ではなかった昭和三十年代、肉屋は霜降り牛肉の隣に、魚屋は近海物の鮪の赤身の傍らにちくわぶを並べたものです。今はどの商店も官憲の眼を恐れ、練り物の棚の一番目立たぬ場所にひっそりと並べています。こんな思いをさせてよいものでしょうか。私たちひとりひとりが、言わば一本の名もなきちくわぶとして、何を為すべきなのか。お伝えしましょう。それは反体制デロであります。

煮込んで全ての角が柔らかくなったちくわぶの姿を模し、数多の規則道徳社会規範に従うふりをしながら心で蔑み続け、のんべんだらりと日を過ごすデロリズム、これのみが世の無常を体現するちくわぶ愛好者に可能なただ一つの道なのです。煮込み過ぎたガンモドキから流れ出た豆腐の欠片にまみれようと、中身のないノンポリ野郎として牛蒡巻きから嘲笑されようとも、我々の無垢な姿を憐れんだ竹輪から冷笑と共に茶色い衣の一片を投げつけられようとも、それでいいではありませんか。ちくわぶとしての高貴な出自と自覚に目覚めれば、怖いものはありません。ご静聴ありがとうございました。ありがとう。ありがとう。




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