Nicotto Town



現代の駐停車事情から妄想する


車道があり歩道とガードレールがあり駐車場がない。
こんなとき車でコンビニに寄るとしたら、どんな風に路肩に停車するか。
この四半世紀で大きく変化した風習の一つだと思うんです、コレ。

大昔の発想だと、車はガードレールにギリギリに寄せて止める。
スロープになった車両乗り入れ部を塞がないようにする。
他者や車の交通を妨げない配慮が中心だった気がするんです。

最近はガードレールから1mくらい離して止めたり、
スロープ部を塞ぐように停めることが主流になってきた(営業車除く)。
腹を立てていたのですが、実はコトはそう単純ではない。

高齢化が影響している。微妙な操作の難しい高齢者は増加の一途だし、
乗り降りが楽なスロープ部でないと歩行が辛い年寄りも多い。
ドア開いて降ろしてやるのにはそれなりのスペースが必要です。

障害者の移動も増えている。これも同様であって、利便性を追求することになる。
国土交通省も、歩道の規格をバリアフリー化に対応したものにしています。
そういう世情だから理屈では納得します。理屈ではね……。

でも腹立ちは収まらない。こんなとき私は差別主義者と化すのです。
悪しき個人主義の氾濫、人権という権利の濫用を疑ってしまう。
自分さえよければそれでいいのかコノヤロー、というのが感想なんです。

「人様にご迷惑をかけずに生きる」ことが私の常識にインプットされてる。
ご迷惑やご不便をかけるときはペコペコ卑屈になるのが当然だと思う。
生来の権利だ、仕方ないだろという態度を取られると激怒しちゃう。

話はズレますが、電車の乗降時のトラブルが非常に増えたそうです。
私は降りるのだ、俺は乗りたいのだというエゴの正面衝突、戦争です。
自己主張と個人の権利を尊重してきた結果の一つがこれだと思う。

年寄りを病院に連れて行く。どこもかしこも混雑しています。
高齢者の中に予防接種を受ける健康体の会社員がいた。座っている。
パソコン出して仕事に夢中。立つ事も困難な年寄りが目に入っても平気。

世界人権宣言と国際人権規約、こどもの権利条約等が大キライな私。
ハンデのある者は小さくなって生きていけ。ガキを人間扱いすんな。
社会に負担かけてんだ、施設で薬殺されないだけマシだと思え。

……はい、自己規制。過激な差別主義タイム終了です。
こうした発想の根本にあるのは、おそらく私の受けた躾によるものです。
それは教育と共に洗脳でもあります。道徳という名の偏見に過ぎない。

さて思う。個人第一主義や全ての人権を認め拡大の一途を辿る現在、
新しい公衆道徳や社会規範をどのように創り上げ身に付けさせるべきか。
「みんなで考えていきましょう」というバカげた思考放棄は不要です。

ムラ社会の崩壊で、地域集団の共通認識や相互扶助を頼ることはできない。
おそらくは権利と義務、権力と責任の拡大と法制化ではなかろうか。
これまた私の大キライな法の支配に頼ることになるが、仕方ないでしょう。

電車内での私の趣味の一つは人間観察。スマホを決していじらない。
本も読まない。車窓を眺め、広告を読み、乗客を観察し、会話に耳を傾ける。
これは草食動物の思想かもしれない。現代は須らく肉食系なのでしょう。




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