Nicotto Town



ボブ・ディランの受容について


深夜寒くて目覚め、暖をとろうとテレビをつけた(気分です)。
いきなり若き日のマイク・ブルームフィールドが現れて驚いた。
スコセッシのディラン映画『ノー・ディレクション・ホーム』後編の一部。

ブーイング浴びるエレキ期のディラン達はヤケッパチで素晴らしいし、
マスメディアとの不毛なやりとり、勝手に偶像化して幻滅するファンも素敵。
最後のテロップに、田中長徳氏の大好きなジョナス・メカスの名もあった。

さて全部見終えたあと、自分がディランをどのように受容しているのか考えた。
答えは簡単、『フォーク』をはみ出した左翼崩れ。我ながらヒドイ表現である。
なぜはみ出すことになったのか、そこがノーベル賞の由縁でございましょう。

一般的なフォークって民族自決や歴史・宗教対立を捨象したものである。
日本なら『友よ』『私たちの望むものは』などが代表であろうか。
ディランもそこから出発したが、おそらく「うさん臭さ」を自覚していた。

20世紀を代表する一曲らしい『ライク・ア・ローリング・ストーン』を読む。
成功者の転落を嘲笑する歌詞が爽快なのだろうか。いや、違うと思うのよね。
『ポスト転石』世代の私は、次のような二種類の感慨を抱くのです。

A:立身出世できぬ凡人の、ルサンチマンの醜さを伝える歌
→こういう罵り方するヤツに限って、没落者の栄時には指を咥え、
いいなー、俺もアタイもああなりたいなーと思ってたに違いないのである。

B:転落すらできぬ第三階梯に、己の立ち位置を痛切に自覚させた歌
→罵られてる元成功者も、それを非難しているエセ道徳家も立派な社会構成員。
社会に自分の居場所なし、社会変革も無力。結果、精神世界に移行する。

リリース直後でなく、1968~69年ごろに初めて聴いたと思うんです。
この時点で「旧世代」の歌・メッセージに感じ、脳内で意訳したんでしょう。
国内フォークは上記の闘争・反体制的な歌詞、一辺倒だった時代ですね。

プロテストフォークが唯一にして正統だという偏見は私になかった。
なぜか当時はアメリカのカントリーやラグタイムや戦前ブルース、
ドク・ワトソンやロバート・ジョンソン、あと古賀メロディーを練習してた。

ディランは意図せずしてフォークをはみ出し(てしまっ)た天才であろう。
私、ヘンリー・カウのフレッド・フリスの渡米後の音楽とか、
ライ・クーダーやビル・フリーゼルにはかなりの類縁性と意図を感じます。

例えばフリスの活動、どこかディランと似てません? 意図的・戦略的だけど。
マサカーなんて、エレクトリック・ディランと凄く被るんですよ。
『ステップ・アクロス・ザ・ボーダー』は『転石』の正統な後継者かも。

日本でディランを探す……見つかった。夏目漱石であろう(!?)。
『私の個人主義』で言ってることはディランと同工異曲だと思う。
音楽家で、ですか? ……阿久悠を思い浮かべる私はかなりオカシイ。

民族自決の問題に答えを出した音楽ムーブメントは皆無だと思う。
ライブエイド、ウィーアーザワールド、サンシティ……ディランは全部出た。
私がウッドストック世代なのは、ディランが出てないからかもしれないなー。




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