Nicotto Town



漢詩漢籍から学んだこと



お友達の部屋で興味深い話題を見て書き込もうとしたんですが、
物凄い分量になりそうなので自制し、ここで書くことにしました。
話題の中心は、この国の大陸文化受容と換骨奪胎/創造ということになるかな。

学生時代に中国の古詩を一年間読まされた。悪くない経験だった。
朗々と音読すると自分が奈良平安の貴族になった気分も味わえる。
だが。同時期に気になっていたことは、内容よりも本来の発音のほう。

「中国語ではマが三種類あるんだぞ」と級友が威張り実演してくれた。
ま、まぁ、ま~ぁ……なんて風に聞こえたわけですが、バンドマン心が疼いた。
当時サビア=ウォーフを読み始めてたので言語的相対論との関係も気になった。

後にソシュールも読んだ。言語とは差異のシステムである。ふむふむ。
「ほかの誰にも似ていない音」を出したいギター弾きとして、
認識される差異の隙間に潜む「何物でもない音声」のほうがより気になった。

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話が散らからないよう順を追い記述いたしましょう(だが散らかった)。
言語的相対論ってのは、言語が思考を支配する、乃至は影響するってヤツ。
この説を全面否定する人は少なくなってるようです。

OSとかBIOSの話と似ているけど、もっと根本に関わるかもしれない。
思考というものがホモサピエンス全てに生理学的にプログラムされた機能なのか、
後天的に獲得されるものなのか、どっちの影響がデカいのかって話です。

快不快、喜怒哀楽等の情動は生理現象か思考か? 答えは知りませんけど、
基になる言語が異なれば快/不快回路も異なるでしょ? 喜怒哀楽も。
アタシゃ音楽ってモンを思考の表出法だと思ってるので、凄く気になる。

デュークエリントンは「音楽はいい音楽とそれ以外だ」という困った発言をした。
コレ、信じてる人が世に溢れてる。いい歌は永遠だとか、国境を超えるとか、
音楽こそが愛と平和のツールだとか。イスラム原理主義の人に言えるのかしら。

オーネットコールマンはこんなことを言っていた。
「平和という曲のCと戦争という曲のCは異なる音だ。そうでなければならない」
これは正しいようで誤りだろう。聴き手側の、コミュニケーションの問題だ。

70年代初頭の山下洋輔は似て非なる発言をした。
「自分が野の花をイメージして出した音群が、共演者や聴衆に、
豚の屠殺場に響く断末魔に聴こえたとしてもなんの問題もない」

創造の社会的価値は発信者ではなく受容者に委ねられる。
私はこれを自明の理だと考えてますが、そう思わない連中が世の主流です。
おそらく『思考』というものを垂直進化の産物だと思ってるんでしょう。

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音楽だけじゃなく、文学だって同様です。あったりまえですけど。
花見で「桃の夭夭たり~」なんて吟じ悦に入ってたとき、ふと考えた。
俺は詩経を正しく(大陸的に)理解してるのか? ……いや、違うだろう。

後に華僑系のミュージシャンと親しくなりまして、
彼と自分の差というものを痛切に感じた。考えざるを得なくなった。
彼のドレミと私のドレミは決定的に異質だった。「山」という一語を歌う際も。

言語的相対論の一語で片づけてもよいのだが、凄く気になる。
私は本質的にチャンコロチョンコウ大嫌い世代の末裔なんですが、
大陸の大らかな自然観や思想には敬意を払ってるし、好きでもある。

いきなり結論なんですが、我々は大陸文化を「創造」した民族なんでしょう。
現代の中華人民共和国・中国共産党の方々が考える中国文化というものと、
日本人が愛する漢籍、思想、自然観、水墨画はゼーンゼン別物なのです。

日本人が「創造」した大陸文化を多くの日本人が愛し、大切にし、
文化のあちこちに根付いてるけど、それは実在しない幻想なのではないか。
こう考えることでアタシ、けっこう腑に落ちてしまったんです。はい。

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能楽や文楽、清元の面白さにも目覚めかけたころに、
フリーミュージックに通ずる「無拍子」の源流についても考えていた。
その答えの一つは「呼吸(ブレス)」ですが、拍節の民族性も悩みのタネだった。

文字言語の視覚的(美術的)効果の件は無視します。
私の偏見ですが、記紀系の原典の記述って偶数拍(字数)が目立つように
思うのです。確か司馬遷の史記にも似た印象を抱いたんですが。

日本語=七五調という決めつけや、農耕民族三拍子説というのもありますが、
音読すれば一目(一聴)瞭然、我々は完全に四拍子民族です。
能楽の謡や清元の華やかな斉奏も4ビートで理解が可能でしょう。

ところがフリーミュージック的な無拍子の源流が分からない。
仏典の音読はほとんど2拍子か4拍子。では初期の雅楽であろうか。
これも大陸/半島文化の輸入だから……と思ったが、どうも違う。

大陸/半島系の宮廷音楽(琉球王朝のも)は拍節が明快でフリーにはならない。
日本の雅楽、なぜああなっちゃったのか。しばらく考え、確証はないのだが、
原始多神教の催事で数多の神への捧げ物として「自然と呼応」した為と結論付けた。

『忠臣蔵』の雪を表現する太鼓あたり、代表的な例ですかね。
あれは雪の神様を舞台に召喚してるようにも聴こえませんかね?
おっと漢詩からFar out しすぎた。強引に戻しましょう。

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私は陶淵明、李白、杜甫を理解しているのか? してるワケがない。
論語に孟子、荀子、老子だってゼーンブ同じ。彼らを脳内に「創造」しただけ。
似た文字を用い人種も近く風俗も多くは共通する。だが全く別の人類。

この思想を突き詰めると差別主義者として良識人から石礫を投げられるのですが、
鬼神を敬し之を遠ざける態度の何がイカンのかとアタシは思ってしまう。
どんな思想を、神や悪魔を信奉しようとご自由に。アタシあっちに行きますから。

徹底した個人主義とアナキズムが文明人・文化人の理想だと思うんだけどなぁ。
共同共生体の垂直進歩を盲信する現代人のなんと多いことか。そっか、分かった。
アタシの考える文明人・文化人ってのは既にいないんですね。ハハハ。ハハ。

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2021/10/06 18:59
>ヘルミーナさん

読んでくださり感謝。「面白かった」という評価を頂けるのは誠に嬉しい瞬間です。
本当は換骨奪胎/創造といった高尚な語を使うべきではなく、
無意識の犯意を含む「捏造」という語を当てるべきなのかもしれないんですが。

そうそう、漢詩の本のお話、リーコニッツの盤名になさってましたね。
アレ、なんか感覚的に繋がるなぁ。トリスターノ派のサウンドと、
日本人が受容した漢文の醍醐味って……ね?ね? 勝手に納得してました。
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2021/10/06 11:59
面白かったです!
三拍子説なんですが、わたしが読んだ本では実際に休符が入る四拍子に近いのではないか、と。

音楽だけでなく、国境を越えられると軽々しく思っているのは厄介ですよね。
同じ国でさえ、『バカの壁』的なものがあるというのに……。

現代の中国で、

>>我々は大陸文化を「創造」した民族なんでしょう。

これに尽きると思います。だから偉いとか日本人凄いじゃなくて。
文明人・文化人はもういない、わたしの言葉じゃないのですが、
すべての人間はもう「知識人」なのですよね。

この文明人・文化人と知識人の差は大きいと思ってます。
ぜんぶにいろいろ啓発されるところ大の日記でしたが、
こんなまとめになってしまってすみません;;



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