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盗月Blog——島村抱月TextData——


島村抱月・著『近代文藝之研究』のテキスト・データ化ブログ。2014年02月に全文のデータ化終了。只今入力ミス等の校正進行中。

■近代文藝之研究|研究|囚はれたる文藝(66)

■近代文藝之研究|研究|囚はれたる文藝 第十四(5)

されども斯くの如き感情の下に潜める知識は、到底永く無言にして已むべくもあらず。或る場合には、日常道徳の聲となつて善惡の批議を試み、或る場合には科學の聲となつて、眞僞の判斷を下すならん。哲理的文藝は則ち之れを導いて、理趣そのまゝを情の衣に包みたり...

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■近代文藝之研究|研究|囚はれたる文藝(65)

■近代文藝之研究|研究|囚はれたる文藝 第十四(4)

此等の點よりいふも、最も文藝に適したる感情は此基督の精神なり。但し茲に基督教といふは、其の踏襲的意味をいふにはあらず、眞精神を指すなりと。眞精神は可なり。されども、尚ほ之れを基督教と限るが故に、之れに合せざるものは不善となり、不美となりて斥けら...

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■近代文藝之研究|研究|囚はれたる文藝(64)

■近代文藝之研究|研究|囚はれたる文藝 第十四(3)

又其の範圍は余りに廣大にして、抽象に近づき、刺戟力を缺く。此等の理由よりして、我れは此のもの文藝全般の生命となるべき題目にはあらずと斷ぜんとす。感情の海は無邊際なり。若し一切の文藝は愛(廣義の)の説法ならざるべからずといはゞ、百弊は立どころに生...

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■近代文藝之研究|研究|囚はれたる文藝(63)

■近代文藝之研究|研究|囚はれたる文藝 第十四(2)

宗教的といふときは、人は直ちに露西亞のトルストイを連想するならん。されども茲にいふところは之れと異なり。思ふに、トルストイは既成主教に囚はれたるにあらざるか。見よ、彼方の赤き道より、殿として登場するものは、此の聖人なり。彼れが教義を具象的に見得...

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