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盗月Blog——島村抱月TextData——


島村抱月・著『近代文藝之研究』のテキスト・データ化ブログ。2014年02月に全文のデータ化終了。只今入力ミス等の校正進行中。

■近代文藝之研究|講話|獨逸現代の音樂家(6)

■近代文藝之研究|講話|獨逸現代の音樂家 (6)
渠曰く、音樂には絶對的の美とか、絶對的の醜とかいふものは無い。美とは畢竟自分が眞に感じた事を眞に發表するの謂である。畢竟藝術は爲し得るだけの力があつて、それを十分に成し遂るといふ所に生ずるものである(クンスト・コンムト・フオム・ケンネン)。從つて美の...

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■近代文藝之研究|講話|獨逸現代の音樂家(5)

■近代文藝之研究|講話|獨逸現代の音樂家 (5)
此音樂に於いても渠が思想をそのまゝ音樂に打ち出さんとする力、又音の激越なものを好んで使ふワグナー式のところ、又其一種佛教的悲觀の調子と呼ばれた調の中に、人生の形骸に包まれて居る精神が、赤裸々のまゝ形骸を破つて突き出んとする趣を寓したる等の特色は能く現...

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■近代文藝之研究|講話|獨逸現代の音樂家(4)

■近代文藝之研究|講話|獨逸現代の音樂家 (4)
ストラウスは一八六四年の生れで、まだ壯年であるが、渠が作樂家としての地位は、人に依つては獨逸第一と判定する人すらある。此人がデヰリゲント[#「ヰ」は小文字]としての得意はワグナー物、就中其ツリスタン・ウント・ヰソールデなどであらうと認められて居る。此...

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■近代文藝之研究|講話|獨逸現代の音樂家(3)

■近代文藝之研究|講話|獨逸現代の音樂家 (3)
單に歌手または彈奏手吹奏手としての大家は別として、現時獨逸で最も大なる音樂家、音樂指揮者は――指揮者となるには當然樂手としてまたは作樂者として、先づ樂團を心服せしむる程の高き位地に上らなくてはならないのであるが――例へば先年までヴヰーン[#「ヰ」は小...

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■近代文藝之研究|講話|獨逸現代の音樂家(2)

■近代文藝之研究|講話|獨逸現代の音樂家 (2)
即ち同じ一つの音鍵を敲いても、甲の人と乙の人の敲く刹那、其人の胸の底から發して指の先に傳はる其精神の工合で、同じ度の同じ音色の音でも違つたものになる。况んやそれが複雜な長短高低種々の音の結合上に現はれるに於ては、到底我々の知識力で分解し盡す事の出來な...

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