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盗月Blog——島村抱月TextData——


島村抱月・著『近代文藝之研究』のテキスト・データ化ブログ。2014年02月に全文のデータ化終了。只今入力ミス等の校正進行中。

■近代文藝之研究|時評|主觀の謙遜…(3)

■近代文藝之研究|時評|主觀の謙遜、現實修飾の悲哀 (3)
現實曝露の悲哀を説くものゝ現實は、言ふまでもなく矛盾、缺陷、無解決である。所謂現實の全相が果たして是れにあるか否かは別として、茲にはしばらく現實といふ語を同意義に用ふる。されば現實の本相に自觀し到つた時、人は愕然として驚いて、其の運命の險し...

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■近代文藝之研究|時評|主觀の謙遜…(2)

■近代文藝之研究|時評|主觀の謙遜、現實修飾の悲哀 (2)
由來此の種の文藝はまた敗者の文藝、弱者の文藝である。打撃、敗北の手疵を胸に負うて涙の味を十分に噛み占めたものが、始めて、感ずる情味、甘い、温かい、しかしながら悲しい一脈のものが、油然として心の奧から湧いて來る。我慢の角をこゝに折つて、心は言...

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■近代文藝之研究|時評|主觀の謙遜…(1)

■近代文藝之研究|時評|主觀の謙遜、現實修飾の悲哀 (1)
     主觀の謙遜、現實修飾の悲哀
最近の評壇で吾人の注意に値する句の一二を言へば、田山花袋氏の「主觀の嚴肅」と、長谷川天溪氏の「現實曝露の悲哀」である。吾人は是れに更に一則づゝを附加して見やう。「主觀の嚴肅」といふことが近時の文藝の一特...

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■近代文藝之研究|時評|情を盡くしたる批評(3)

■近代文藝之研究|時評|情を盡くしたる批評 (3)
想ふに今の作品批評に對する批難の源は、此等の批評が常に判斷のみを擧げて根據を示さないからである。説理的批評によつて事實と理論との根據を提起するものがあれば最も妙、さも無ければ其の飾らざる事實だけでも提出する風を興したら、おのづから此の批難に答へるこ...

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■近代文藝之研究|時評|情を盡くしたる批評(2)

■近代文藝之研究|時評|情を盡くしたる批評 (2)
鑑賞はもとより情中心の仕事に外ならない。吾人が一作品に對して受け且つ發する所の印象は、情を以つて調節せられる。されば若し其の批評にして單に斯かる印象の記述のみを以て終らしめんとすれば茲に所謂印象的批評を生ずる。印象とは言ひながら、其の中に判斷の含ま...

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