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盗月Blog——島村抱月TextData——


島村抱月・著『近代文藝之研究』のテキスト・データ化ブログ。2014年02月に全文のデータ化終了。只今入力ミス等の校正進行中。

■近代文藝之研究|時評|文藝以内と以外

■近代文藝之研究|時評|文藝以内と以外
     文藝以内と以外
長谷川天溪氏の幻滅時代といふ説、之れを文藝以内に於いていへば、單に内容と相應じて最も多く自然なる形式に還れといふに歸するであらう。はたまた其の内容は最も多く人生最後の眞理に接近せよといふのであらう。けれども、若し更に進んで、文藝の中か...

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■近代文藝之研究|時評|個人の寂寞、……(7)

■近代文藝之研究|時評|個人の寂寞、勝利の悲哀 (7)
詮ずるに喜んで蘆花氏の福音に聽かんとするが如き社會は、戰勝の悲哀を説くを要するほど痛切に戰勝の歡喜に魅せられてはゐないのである。此の意に於いて、吾人は蘆花氏の説教の、勞多くして用少なからんを恐るゝものである。獨り之れを日露戰爭以外、個人主義、本...

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■近代文藝之研究|時評|個人の寂寞、……(6)

■近代文藝之研究|時評|個人の寂寞、勝利の悲哀 (6)
併しながら吾人は寧ろ根本に於いて異なる意見を持してゐる。日露戰後、戰勝の歡喜に幻惑して宗教的理想の境と益々相遠ざからんとするが如き人々は初めから戰勝の悲哀といふが如き精神的福音に耳を傾け得るものとも覺えぬ。また國家といふ傳來の生存形式を保持する...

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■近代文藝之研究|時評|個人の寂寞、……(5)

■近代文藝之研究|時評|個人の寂寞、勝利の悲哀 (5)
之れを要するに、今は既に個人主義、本能主義の歡喜を説くべき時でないと共に、之れが解脱を説くのも容易の業ではあるまい。今はむしろ之が悲哀、寂寞を説くべき時ではないか。而して是れ正に一代の思想が最も文藝に利するの秋ではないか。先頃徳冨蘆花氏の『黒潮...

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■近代文藝之研究|時評|個人の寂寞、……(4)

■近代文藝之研究|時評|個人の寂寞、勝利の悲哀 (4)
吾人が文藝の不盡の源といつたのは、此の悲哀の泉に汲むの意である。此の點から言へば、個人主義、本能主義の如きは、人世ある限り窮極のものに非ずして發足のものである。結果成就の眼を以て見るべきものではない。之れを現當至極の主義の如く唱説するの徒は、事...

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