■近代文藝之研究|時評|個人の寂寞、……(4)
- カテゴリ: その他
- 2012/06/10 01:47:46
■近代文藝之研究|時評|個人の寂寞、勝利の悲哀 (4)
吾人が文藝の不盡の源といつたのは、此の悲哀の泉に汲むの意である。此の點から言へば、個人主義、本能主義の如きは、人世ある限り窮極のものに非ずして發足のものである。結果成就の眼を以て見るべきものではない。之れを現當至極の主義の如く唱説するの徒は、事...
島村抱月・著『近代文藝之研究』のテキスト・データ化ブログ。2014年02月に全文のデータ化終了。只今入力ミス等の校正進行中。
■近代文藝之研究|時評|個人の寂寞、勝利の悲哀 (4)
吾人が文藝の不盡の源といつたのは、此の悲哀の泉に汲むの意である。此の點から言へば、個人主義、本能主義の如きは、人世ある限り窮極のものに非ずして發足のものである。結果成就の眼を以て見るべきものではない。之れを現當至極の主義の如く唱説するの徒は、事...
■近代文藝之研究|時評|個人の寂寞、勝利の悲哀 (3)
斯くの如くして個人的傾向と宗教的傾向との中間には尚ほ複雜なる過程を要する。此の過程を眞に踏み了へた後でなければ、前者の傾向と、後者の傾向とは確乎として相接し相移るものではあるまい。而して吾人は實に此の中間の過程に盡きざる文藝の源を見出だすと考へ...
■近代文藝之研究|時評|個人の寂寞、勝利の悲哀 (2)
個人主義、本能主義の要求が、道徳といふものゝ存立してゐる限り現在の社會に〓[#「厭」+「食」]飽せらるべきものでないとすれば、そこに煩悶が起こる。此の如き煩悶の内容は不平、怨嗟、破壞である。また或る程度に於いては、一時的、一局部的に個人本位、本...
■近代文藝之研究|時評|個人の寂寞、勝利の悲哀 (1)
個人の寂寞、勝利の悲哀
我が評論壇に個人主義、本能主義が喧傅せられてから、もう幾年かになる。其の間にいはゆる宗教的傾向も現はれて來た。而して綱島梁川氏の見神の説、伊藤證信氏の無我愛の教などは此の傾向の一頂點に戴いた冠の如きものであつ...
■近代文藝之研究|時評|文學入門者に (四)(2)
以上の外數へ上げたら尚他にもあるであらむが、要するに大略先づこんなものであらう。而してこれ等のものはすべてその修養し得た所を直に模し、追隨するといふが目的でも何でもない。一度自己といふものゝ中に消化させて了ひ、全く新しいものとして新に出立すべきもの...