■近代文藝之研究|時評|禁閲覽の文學(3)
- カテゴリ: その他
- 2011/11/16 23:06:58
■近代文藝之研究|時評|禁閲覽の文學 (3)
まして戀愛が文藝の中心感情である場合には、其の戀愛にして道徳との矛盾を殘すこと無く、最後の是認によつて直に圓融渾一の快感となる限りは、之れを其の作品の生命とする上に何の不都合も無いではないか。斯くの如きは既に精神的、道徳的破綻を顧みずして色欲にのみ狂奔せ...
島村抱月・著『近代文藝之研究』のテキスト・データ化ブログ。2014年02月に全文のデータ化終了。只今入力ミス等の校正進行中。
■近代文藝之研究|時評|禁閲覽の文學 (3)
まして戀愛が文藝の中心感情である場合には、其の戀愛にして道徳との矛盾を殘すこと無く、最後の是認によつて直に圓融渾一の快感となる限りは、之れを其の作品の生命とする上に何の不都合も無いではないか。斯くの如きは既に精神的、道徳的破綻を顧みずして色欲にのみ狂奔せ...
■近代文藝之研究|時評|禁閲覽の文學 (2)
然るに今の場合は未だ國法が其の自衞權を行ふといふ如き黒白の事實問題となつたのでは無い、豫防的干渉の性を帶びた事件である。夫の學校長等が學生の讀料に禁制を加へるのと同じく、婆心から生じた教育的態度に外ならぬ。すなはち是れ道徳上、思想上の問題である。第一『魔...
■近代文藝之研究|時評|禁閲覽の文學 (1)
禁閲覽の文學
頃者新聞紙の報ずるところによれば、我が帝國圖書館は小杉天外氏の小説『魔風戀風』の閲覽を禁じたといふ。吾人は是れを以て當を失した處置と信ずる。身みづから圖書を護つて、最も斯の道に理解あり同情あるべき當事者が、輕々しく斯くの如き處置に...
■近代文藝之研究|時評|情緒主觀の文學 (5)
されば吾人は上來の論の歸結として、今の詩壇に尚ほ多くの情緒主觀の聲を聞かんことを願ふ。我等が小説壇に求め得ざるものを詩壇に見出ださしめよ。主觀の文學、情緒の文學も必ず趣味の一面として要求を絶つ筈は無い。而して人心の一隅に存する此の要求を充たすの任は、即...
■近代文藝之研究|時評|情緒主觀の文學 (4)
詩が技巧に隱れんとするとき、之れを呼び生かさんために自然といふことを提出するのは、凡ての文藝に避けがたい傾向であるとしても、此の場合に凡ての自然派と同じく、或は題を凡景、醜物、に取り或は田園鄙賤の生活を歌ふが如きは、所詮〓[#「口」+「永」]嘆の暗示を...