■近代文藝之研究|研究|近代批評の意義(22)
- カテゴリ: その他
- 2010/03/29 07:14:59
■近代文藝之研究|研究|近代批評の意義 (22)
而して佳し惡しの判断は一種の評價である。縱ひ其の標準は明に客觀には掲げられずとするも、主觀の心の底に埋まつて存してゐることは疑ふべくもあらぬ。意識の閾の外で之れに照準したに過ぎない。從つて之れを我等が知識作用の自然に任すれば、主觀の底に埋沒してゐる...
島村抱月・著『近代文藝之研究』のテキスト・データ化ブログ。2014年02月に全文のデータ化終了。只今入力ミス等の校正進行中。
■近代文藝之研究|研究|近代批評の意義 (22)
而して佳し惡しの判断は一種の評價である。縱ひ其の標準は明に客觀には掲げられずとするも、主觀の心の底に埋まつて存してゐることは疑ふべくもあらぬ。意識の閾の外で之れに照準したに過ぎない。從つて之れを我等が知識作用の自然に任すれば、主觀の底に埋沒してゐる...
■近代文藝之研究|研究|近代批評の意義 (21)
降つては伊太利のカステルヴヱトロ等が之れに時の一致、處の一致を竄入するに至つたのも結局は彼等が先づ作品の上に經驗したところから歸納した後天的のものであるかも知れぬ。
論じて茲まで來れば、説明的と評價的、後天的と先天的、主觀的と客觀的の批評の區界は甚...
■近代文藝之研究|研究|近代批評の意義 (20)
前に引いたヴヰンケルマンの場合の如きは一層明白に此の過渡を示してゐる。彼れはラオコーン像を以て、表面の強烈な感情の裏に偉大な冷靜の覺悟の潜んでゐる所に美があるとした。而して同時に彼れが美學上の原理は、斯やうな反對なものゝ調和といふことに存した。兩者...
■近代文藝之研究|研究|近代批評の意義 (19)
簡にして美なる絶好の説明批評と稱してよからう。而も之れすら「心余りありて言葉足らず」といふ推理の辭を冠するを禁じ得なかつた。文屋の康秀を評して「あき人の善ききぬ着たらんが如し」といひ「言葉巧みにて其のさま身におはず」と推理したのも、小野の小町を評し...
■近代文藝之研究|研究|近代批評の意義 (18)
然るに一旦斯くの如き意識の竄入を我等の心作用に許すときは、初はたとへ半歩であらうとも、其は既に全歩を許したと同じ結果になる。我等の理知は、究極するところ事物の理由を知らんとするにあるべければ、之れを與へざる限り、其の批評は到底動搖を免れぬ。而して批...