Nicotto Town



天晴 ギリヤーク尼ケ崎


卒寿ですよ。明日、横浜港の大さん橋で舞踊公演をなさるということです。
大野一雄に続き息子の慶人氏も今年初めに亡くなっている。
戦争体験を経た『舞踏』世代の最後のお一人かもしれませぬ。

舞踊と舞踏がどう違うかというのは専門家にお任せしよう。
みなさん、ダンスとか踊りというものに、いつごろ如何にして興味持ちました?
今の幼児はアニメや動画のヒップホップ的群舞や派手なヤツで興味を持つのだろう。

恥ずかしながら……身内に社交ダンスをやってたタワケがおりまして、
ガキの頃面白半分に教えられた。スロースロー、クイッククイック。
フォックストロットあたりで互いに飽き、そのままになりましたが。

いっぽう歌舞伎バカも身内に溢れていた。当然日本舞踊にも造詣が深い。
和洋取り混ぜた舞踊情報に翻弄されるわけですが、ここで不思議なことがある。
謡をやってるヤツはいなかったため、能楽に触れるのは後になった。

とりあえず体験してみんべ、と薪能を観にいった。うーむ……ヨイじゃないの。
中世の無常観に傾倒していたこともあり、テレビ中継も頻繁に見るようにした。
音楽も素晴らしい。大陸伝来の雅楽が能楽に変容した過程も日本の無常であろう。

法事の読経、アレもいいっすよね。鳴り物が絶妙なポイントにビシバシ入る。
バンド仲間には「アレ、ハッパよりヤベエ」と不穏な発言をするヤツもいた。
特定の宗教に限らず『祈り』というのは普遍を以て魂を震わせるのかな。

土方巽も麿赤児も、大野氏も尼ケ崎氏も、みな『日本の祈り』なんでしょうね。
墓参の帰り道など、醤油で煮しめた玄武岩みたいな婆さんが、先祖の墓に向かい、
モゴモゴ言いながら手を合わせ続ける姿を見たりする。あれも『舞踏』だな。

少々脱線。渋谷陽一がエディ・ヴァン・ヘイレンの追悼文で、
「センチメンタリズム無き暴力性が魅力だった」と書いていたんですが、
けっこう納得できる。アンファンテリブル的な捉え方ですね。

このセンチメンタリズムを『敗戦体験』と置き換えてみよう。
私の好む上記の偉大な踊り手、みな溢れ出るほど備えている。
ジャンルは違うが、ノッポさんとして知られる高見映氏にも似た風情を感じます。

戦争、イヤだよね。駆り出されるのも、巻き込まれるのも。
でも、なくなんないんだよ。これからも。ゼッタイに。
だからオレら、祈るしかできないんだ。まあ、よかったら観てってよ。

こんな独語(北杜夫なら「ひとりごちる」と表現する)と等価なものとして、
彼らの踊り(だかなんだかワケワカラン『ようす・たたずまい』)はある。
さて台風が通り過ぎてくれるのか。レインウェア着て観に行くか。




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