Nicotto Town



『至上の愛 ライブ・イン・シアトル』に思う


1965年の未発表ライブ、全曲演ってるんです。
「初めてジャズ買ったけどメロディーないんですね、失敗しました」という
初心者レビュアーの評価はある意味正しいかもしれません。笑ったけど。

大友良英氏がラジオで『Part1 承認』をかけたあと絶賛してました。
氏の音楽観と呼応する面白い評価だったので、
ちょっと大意を紹介しておきましょう。要約すると……

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あまり指摘されないが『至上の愛』のリズムはラテン的である。
曲の終わりでギャリソンとドナルドギャレット、2人のベースが、
「引っ張りあう」ようなビートを出しており、これがコルトレーンの狙いだろう。

当時ファラオを入れたのも、トレーンとの引っ張り合いを期待したのだろう。
だが稀有なドラマーであるエルヴィンは、ラテン的なビートの引っ張り合いを
(意訳;ポリリズム的効果やうねり)独力で演ることができた。

コルトレーンがラシッドアリを迎え2ドラム体制になったことを契機に、
エルヴィンが脱退したのはそこに原因がある気がする。
(※苦闘するマッコイへの言及が少なく、ちょっと気の毒でした)

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うーむ……これは大友氏周辺のジャズマンで共通の認識なんでしょうかね。
菊池成孔氏でも、おそらく構造的な分析の後で似た見解を示すだろうなぁ。
世代が近く、共感するときもあるのだが、やはり一種の断絶を感じてしまう。

大友氏、現在「音楽家」と名乗ることが多いです。
もちろん戦略でもあるけど、特に311以降、この姿勢が強くなっている。
いわゆる「ひらかれた」音楽というものへの情熱が今の原動力でしょう。

さて持論を展開しましょう。まず『至上の愛』スタジオ盤リリース直後、
まことに玄妙な批判をしてトレーンおよびジャズから離れた男がいる。
相倉久人。彼と高柳昌行や間章との仲の悪さは伝説になってますね。

もちろん私はそうした経緯を後に書籍から知るわけなのですが、
当時、相倉と高柳と間という三人が志向した方向性の違いは、
現代にも有効、かつ考えさせられるものなのです。

相倉は『ジャズ』というものの革命性に惹かれたが、
『ジャズ』の黒人要素へのこだわりもかなり強かったと思われる。
妙なたとえではありますが、寺島靖国氏に似た感受性とも言えるかな。

ドルフィー逝去後の黄金カルテットの演奏が、トレーンの意志により、
いわゆる『ジャズ』を超え乖離していこうとする過渡期、
相倉はトレーン贔屓をやめ、しだいに冷徹に批評するようになっていく。

彼がトレーンと訣別後、面倒を見てプッシュしたのは山下洋輔。
当時のフリーとしては異質な神風特攻的一体感を持つ音楽を、
「黒人→日本人」に置き換えた日本の『ジャズ』として評価したのでしょう。

理解困難でしょうが、相倉はコルトレーンが『ジャズ』から離れ、
『ジャズ』でなくなっていく先を予想し、『ジャズ』を見限った。
彼にとって『ジャズ』は事実上コルトレーンで終わったのです。

こうした見解を、大友氏や菊池氏などは完全否定するでしょう。
「オメエがジャズの可能性を決めるんじゃねえ」とか言いそうだなぁ。
気持ちは三割がた分かるけど、七割ほどは逆らいたい。

「ひらかれた」音楽と仮称しましたが、そりゃいったいなんじゃい。
貴方達のやっているスンバラシイ音楽ですかい?と言えば首を振るだろう。
でもそれが『音楽』の『あるべき姿』だとは信じてるんでしょうね。

「いいと言うな、好きと言え」という至言を以前引用したけど、
どうも今のポスト311派、落とし穴に落ちかけてる気がするんです。
311以降、なぜか「いい/正しい/万人が認めねばならぬ」価値観が蔓延気味。

バンドマンで原発推進派、護憲リベラル保守、人権拡張懐疑派なんて、
アタシ以外に逢ったことがありません。いつもボロクソ言われますよ。
でもその硬直化/一元化がポピュリズム蔓延の土壌、ファシズムの卵じゃないの?

さて、高柳は極度に知的で厳格な音楽家です(ダジャレの帝王でもあった)。
60年代半ば、高柳主催の新世紀音楽研究会に相倉一派が合流したころ、
コマーシャル(≒大衆扇動)にも軸足を置く相倉派と激しく対立します。

高柳と間章はしばらく行動を共にし、あの阿部薫と知り合う。
高柳は相倉/山下的なコマーシャリズムにほとんど関心を持たないけど、
結局『ジャズ』の人です。だが間=阿部は『ジャズ』への拘りを持たなかった。

高柳は自分の美意識から逸脱しすぎた二人との共同作業を打ち切り、
間章は高柳を脱落・落伍者として攻撃し続けた。
阿部=間の化学反応は70年代の日本で数多くの奇跡を生みますが……

けっきょく間章はオルグ、阿部はアルト吹く一匹狼の活動家。
距離を置き、ほぼ同時期に死んでます。どちらも『戦死』ですね。
この二人、未開の野を行くコルトレーンの『もしも…』かもしれません。

この相倉・高柳・間という思考/志向の差は様々なアナロジーで語れて便利。
『至上の愛』ライブに話を戻そう。嫌いな演奏ではありませんけど、
『ジャズ』と『完全即興』のせめぎあい的重苦しさに満ちてるように思えた。

トレーンはいいですよ、自分のバンドですもの、勝手に演りゃいい。
エルヴィンとマッコイも凄い(大友氏のいう『素晴らしい』)演奏ですが、
彼らの『ジャズ』と『コルトレーンミュージック』の狭間で苦悩する姿が浮かぶ。

一緒に創り上げている(演奏の歓びに満ちた)演奏には聴こえない。
「ここから先、ジャズの道にあらず」という標識の先に踏み込んだトレーンと、
その標識に躊躇しトレーンを必死に呼び止める二人の額の冷汗が見えてくる。

現代的な「ひらかれたジャズ観」にイチャモンつけるようですが、
やはり『ジャズ』とは言い切れぬものを多分に含んだ、でも名演です。
私はAAOCやカンパニー、SMEと同じ脳内カテゴライズで「楽しみ」ました。

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排他的で多分に差別主義者であるという自覚はあります。
だがジャンル分け・カテゴライズに対する執拗な攻撃もどうかと思ってる。
認識というものには分類・区別って不可欠なんじゃないかしらん。

「いい/わるい」の二元論が幅を利かせ過ぎで気持ち悪くなる現代。
真実病(『真実・事実・真相』に拘る方々)も感染症以上に蔓延してます。
この妄言に若干でも首肯するなら、この『至上の愛』を聴いていただきたい。

今は初期のモーターヘッドを聴いてます。バランスとるためかな。
コルトレーンは好き、レミーも好き、阿部も好き。鑑賞回路が違うだけ。
でも「良い音楽」とか「優れた音楽」とか言わずに過ごしたい。うわ、長すぎた。




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