Nicotto Town


つくしのつれづれノート


城砦都市鎌倉

武家の都として知られている割にはその実態があまり知られていない鎌倉。今回はその実態にせまりたいと思います。 

武家の都鎌倉の出発点は1180年に始まるいわゆる源平合戦たる治承・寿永の乱で源頼政の挙兵に呼応した源頼朝が、関東を平定しながらその拠点として最終的に鎌倉に腰を据えたところから始まります。(理由として鎌倉はよく言われる防御に適した地形のほかに父義朝をはじめ代々頼朝の祖先たる河内源氏(清和源氏の系統のひとつで有名な先祖に源頼義・源義家。主な分家に武田氏・足利氏・新田氏とあげたらキリがない…)に縁の深い土地という理由もあり鶴岡八幡宮自体頼義が建てたものを約100年後に頼朝が現在の位置に建て直したものです。)
この鎌倉、よく城塞都市といわれ「新古今和歌集」の藤原定家が日記に「鎌倉城」と書いたりしてるのですが、頼朝存命時の鎌倉は切通しすら出来ていない状態でした。
その鎌倉が名実ともに城塞都市となっていくのは、頼朝死後に始まる御家人たち幕府の主導権争いによる抗争期からで、そのの勝者である執権北条氏がライバル御家人を次々に滅ぼしていく過程で整備されたということです。
 


さてその城塞都市鎌倉の構造ですが…(ここでは北条氏の鎌倉としてゴール地点を、北条氏の拠点が集中している鎌倉東側にある東勝寺跡の山として説明します。)
・よく言われるのは鎌倉に入る唯一の手段とされる鎌倉を三方に囲む山に通ってる七切通し。これだけだと切通し通らずに山を越えりゃ攻め放題じゃないかと突っ込みたくなるところなんですが、実は三方の山の尾根伝いに一本の長大な堀を巡らしているため(当然警備している)山超えの侵入が不可能なのです。そして切通しの側には建長寺や極楽寺など出城に転用できる寺社などを備えていたそうです。
・何とか鎌倉に侵入したとしても鶴岡八幡宮へ続く若宮大路が立ちはだかります。この若宮大路は当時両側に堀を構えた上に塀を巡らせているため、そこを固められとそこを越えることが困難になります。(実際御家人の抗争の一つである和田合戦のとき、有力御家人和田義盛勢が北条勢の拠点を攻撃しようと若宮大路へ突撃を繰り返しますが、跳ね返されて軍勢が疲弊し滅亡します。)
・そして若宮大路を越えてその先を流れる滑川を越えて、ようやく北条氏の詰めの城ともいえる東勝寺のある葛西ヶ谷という山にたどり着きます。ここは発掘によって本格的な防御施設だったことがわかっています。
・そして海岸沿いを沢山の軍船で固めてしまうと箱状態になり鉄壁の守りとなります。
…北条氏はこうした防御施設を逐次備えてライバルを次々に滅ぼし、最終的に各御家人の鎌倉入りの人数まで制限して名実ともに武家の王となるわけです。


 …こう書いてしまうと難攻不落の名城のように聞こえてしまいますが、

この城塞都市鎌倉、実は大軍で攻められて守り切れたためしが一度もありません。

…というのもこれらの防御施設というのが平安~鎌倉期の小規模な合戦を想定して作られているので、それ以降の戦国時代みたいな大軍で攻められては太刀打ちできなかったみたいなのです。(鎌倉滅亡期からそのような集団白兵戦に変わっていくようです。)
それなのにそのような防御施設がまるでなかった時代に「鎌倉城」と呼ばれているのは、坂東の屈強の各武士団が頼朝を首領と仰いで一枚岩に鎌倉に集結している様子を京都の公家たちが不気味に思ったのが真相だったということです。
まさに武田信玄の「人は城、人は石垣」状態だったわけです。
 

鎌倉幕府は時代が下るにつれて北条氏の専横が目立つようになって多くの武家の支持を失い、その後起こった元弘の乱で北条打倒を目指して挙兵した新田義貞に多くの御家人が味方について大軍になって鎌倉に押し寄せ滅ぼされてしまいます。(よく稲村ケ崎の潮の引き際に攻めたといわれていますがそのことは北条氏も当然承知のはず。実は鎌倉攻略の際に地震が起こって稲村ケ崎周辺の海岸の潮が異常に引いたという説が最近ささやかれています。)
そして追い詰められた北条勢は件の東勝寺に立てこもり実に870人が自刃したと伝えられています。(東勝寺跡には自刃した北条勢を弔う「腹切やぐら」というものが存在しています。)

 当初「武士の武士による武士のための都」として誕生した鎌倉は、結局多くの不満を抱いた武士たちによって滅ぼされてしまうわけです。まさに皮肉というほかありません。 
これらの防御施設こそ本来の鎌倉の顔と思うのですがいかがでしょうか?



…これ自分がサークルの方で書かせていただいた内容なのですが、結構出来がよかったのでこちらの方にも転用させていただきました。

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2012/12/06 23:22
サンテ様へ…こんな派手な政権の滅び方は日本史上唯一だと思います。
鎌倉時代も後半になると経済や社会システムの激変に政治が追い付かなくなるんですよ。それなのに政治改革をしないで私腹ばっかり肥やして恨みを買ったんわけなんです。この社会システムの再構築がされるまでにそれから約60年ほどかかるんです。(成熟するのは織田信長台頭時の約250年後なわけで…)
その行き詰まり・混乱ぶりはまるで今の政治経済の状況を見てるようで怖く感じることが時々あります。
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2012/12/06 23:06
ほおー。日本史取ってなかったので鎌倉末期/南北朝時代が一番印象薄くて
よく分かんないですけど、武力によって滅んだわけですね、鎌倉幕府。
元寇後国家の中枢部の周りを固め直す余裕はなかったんですかねー。
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2012/03/13 22:14
鎌倉で当時のまま残っているのは寺社仏閣か土塁だけで武士の都としてみるべきものは今のところ皆無といっても過言ではありません。なのでうわべだけの鎌倉世界遺産登録には反対してます。

あとどの時代においてもそうですが特定の氏族をひいきにしてるわけではありません。北条氏なら義時・泰時・時頼、頼朝を輩出した河内源氏なら義家・為朝・頼朝(残念ながら義経は創作作品格好の題材として魅力的だけど人物としては嫌い。)などですかね・・・

もしひいきの氏族がいるとすれば鎌倉氏(鎌倉付近を根城としてた武家末裔に大庭氏・梶原氏・板倉氏・長尾氏…上杉謙信は鎌倉氏の末裔)か毛利氏(初代の毛利李光~江戸初期の毛利輝元などひっくるめて好き)です。
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2012/03/13 13:35
鎌倉って遺跡とか残っているの?有名なのってあまりない気がするけど…

まあ、今のいわゆる城ってスタイルってのがないのは解っているけど、やっぱ木造のものが多かったから

遺跡的なものは残るのは無理かな? あったとしても明日行くって言う距離じゃないけどww

つくしさんは、こに時代でも、源氏より北条のほうが好きなの???




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