Nicotto Town


つくしのつれづれノート


南部の城(100名城東北巡りの旅)


先月末に青森・岩手・宮城の東北3県をめぐる旅行をしてきました。

旅の目的は100名城のスタンプラリー。
今回の旅行で巡った城はどれも東北の大名・南部氏に関係する城でした。
そんなわけで今回の旅の成果である100名城の解説をするわけですが、その前に巡った城に関係する大名・南部氏の解説から始めます。


南部氏は新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏の流れをくむ一族であの有名な戦国大名・武田信玄の同族にあたり、苗字の南部はキャンプアニメで有名な「ゆるキャン△」の舞台である山梨県の南部町に住み着いたことに由来します。
南部氏の東北での歴史は平泉の奥州藤原氏を滅ぼした奥州合戦の戦功で源頼朝から現在の八戸付近を拝領されたところから始まるとされていますが定かではなく、南部氏が本格的に東北で台頭するのは南北朝時代からとのことです。
室町戦国には南部氏は現在の青森県や岩手県を合わせた広大な領土を誇る有力大名に成長し「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われるほどの最盛期を築き上げたのですが、戦国時代末期になると南部一族内の内紛が続き結果として家臣の(もしくは南部一族)の大浦為信(津軽為信)による青森西半分の弘前領の分離独立を招く結果となってしまいます。(この結果南部藩と弘前藩は江戸時代を通じて紛争を繰り返す深刻な対立を続け、明治維新の戊辰戦争では敵味方に分かれて一戦を交えている。)
その後南部氏は現在の岩手県と青森県東半分(八戸)を領有する大名として明治維新まで続くことになりますが、薩摩の島津氏に並び鎌倉時代から本拠地を変えないまま明治維新まで続いた数少ない大名の一家に数えられるわけです。


…で、今回巡った南部氏の城が以下のごとし

・根城(青森県八戸市)…南北朝時代に南部氏が築城した城であり南部氏が東北で台頭する出発点になった城だとのこと。
石垣も天守もない土盛りの古いタイプのお城です。
この城の何がすごいかというと昭和末期からの発掘調査と整備事業によって本丸の城門・御殿などの建造物の多くが廃城になった安土桃山時代の状態に復元されていることであり、戦国時代の武士の生活スタイルが垣間見れる貴重な歴史施設となっているわけです。
また、根城の近くには鎌倉時代に南部氏が建立したとされる櫛引八幡宮があり、その宝物殿には歴代の南部当主が奉納した国宝の大鎧二領をはじめとした数々の武具甲冑が展示されており、南部氏の歴史の長さを改めて思い知らされます。

・盛岡城(岩手県盛岡市)…豊臣秀吉の天下平定事業が完了した後に南部領の政治拠点となるべく築城された府城であり、堅牢な石垣に覆われた盛岡城は会津若松の鶴ヶ城や白河の小峰城に並ぶ東北の三代名城に数えられるとのこと。
しかし江戸時代の太平の世においてはその石垣が仇となり本丸までの行き来が面倒になったため本来のルートを無視したショートカット通路を設けたり、本丸に御殿が密集しすぎて本丸から建物がはみ出したりするなど今でいう違法建築状態が目立つ城だったとのこと。
今はその当時の建築物は移築された蔵を除いて皆無で石垣だけが往時の面影を残してるのみとなっているんですが、現在はその石垣も老朽化によって倒壊寸前になっているようであり現在城跡に立ち入り禁止区域が目立つ有様となっています。
一応現在その石垣の修理事業が展開されてるのですが修理が完了するまでに長い時間がかかるものと思われます。



今回の旅で思ったことは八戸と盛岡は県境で隔てられてるものの南部氏支配領域としての歴史がとても長いため、県を超えた結びつきが非常に強い印象を受けました。(理由としては弘前と南部の確執に加え弘前側と八戸側を行き来するのが大変でコミニティが分断されてることも大きいと思われる。)
今回の旅行は当たり前のことであはあるのですが同じ日本においても地域ごとに歴史文化が異なっているということを改めて思い知らされました。
こういう発見ができる旅を続けられるよう今後とも精進するつもりであります。

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2023/08/12 22:16
青森県の県庁所在地が津軽領内の港町(現在の青森市)に置かれたため、国や県の機関も津軽ばかり
鉄道も青森駅が対北海道の連絡航路がメインになるため、駅の構造も八戸ー弘前を直通できない配線(青森駅で方向転換すれば可能)
加えて下北半島は懲罰的な転封で旧会津が送り込まれた斗南藩になったことも南部領冷遇の一因なのでしょう

戊辰戦争で新政府側についた津軽と賊徒の汚名を着せられた南部
東北人にとって極めてデリケートな部分だし、根が深い話です




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