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つくしのつれづれノート


新撰組後記(永倉新八編)

戊辰戦争を旧幕府軍として戦った者たちのその後をついて書いた第二弾として、今回は新撰組二番隊組長・永倉新八です。

戊辰戦争の鳥羽伏見の戦いの後、新撰組が甲陽鎮撫隊に改組され甲州へ進撃するも敗れた際に永倉は近藤勇らと袂を分かち靖兵隊を結成して各地を転戦しますが、戊辰戦争の東北戦争(明治新政府軍×奥羽列藩同盟(仙台藩・会津藩・米沢藩・庄内藩等) 会津戦争はこの東北戦争の最激戦区である。)で会津藩が降伏したのを機に戦線を離脱して江戸にもどり主家であった松前藩に帰参します。(永倉新八の主家は北海道松前藩なのですが、父が江戸詰の藩士だったため、江戸の藩邸生まれの生粋の江戸っ子なんです。)

明治4年に松前藩医杉村介庵の婿養子となり名を杉村義衛と改め明治6年に北海道小樽へ一時引っ越し官僚の招きで樺戸監獄の剣術師範をしてたのですが4年で退職し(その頃に西南戦争がおこり斎藤一が別動第三旅団(警視隊)の将兵として出征、戦地で選抜された抜刀隊として活躍する。)、また東京に戻って道場を開いていたそうで、最終的に明治32年に小樽に永住するまで東京で剣術を続けていたということです。とにかくこの永倉という人は3度の飯より剣術が好きというような人みたいです。
その間に明治27年に起こった日清戦争の際に当時56歳になってた永倉新八が抜刀隊として出征することを志願した(恐らく西南戦争の斎藤一の抜刀隊に触発されたのではないかと思います。)ところ断られたというエピソードがあります。本人は「新撰組が手を貸したら薩長の面目丸つぶれかい」と笑ったそうです。(永倉に限らず近代日本初の大規模な対外戦争ということで大勢の血気盛んな者が「戦争に参加させろ」と陸軍に詰めかけたそうです。軍はかえって戦争遂行の邪魔になるとしてそのすべてを門前払いにしました。日清戦争に抜刀隊が結成された事実はありません。)

小樽に永住した後も永倉の剣術好きは相変わらずで、初孫(永倉は孫の誕生を「このようなうめえおもちゃにありつけようとは思わなかった」と大いに喜んだそうです。)に剣術を教えてビシバシしごいていたそうですが、孫の父たる永倉の息子は加納治五郎の柔道をやっており、孫に教えるのは剣術か柔道かでしばしば親子げんかになったそうです(笑)(柔道をやると爺の新八はへそ曲げて小づかいもお菓子もくれない。そこへ「柔道するなら小遣いやるぞ」父が言い出して大げんかを始めるのだとか…)その大げんかでそれぞれ剣道・柔道で取っ組み合いの異種格闘技をしてたとすれば笑えます。(もちろん二人ともいい大人ですからそんなことはないでしょうが…)
それ以外にも永倉は札幌の北海道大学の剣道部へも出入りして稽古をつけていたそうです。すでによぼよぼ状態ですが稽古着をつけて竹刀を持って構えると鉄線が入ったようにピンとなり、大学の剣道部員がまとめてかかってきても倒すことはできなかったそうです。本当に剣術好きです。

晩年の永倉新八の楽しみは当時活動写真と呼ばれた映画を観に行くことだったそうで(フランスのリュミエール兄弟がスクリーンと映写機によるキネマトグラフを発明したのが1894年(明治27年)・3年後の明治30年には日本の映画興行が始まっているので永倉存命時に映画は存在しています。)、よく孫を連れて映画館に足を運んだそうです。映画を観ながらよく「近藤や土方がこの文明の不思議を観たらどう思うだろう」とつぶやいていたそうです。また映画館でやくざの集団にからまれた際に鋭い眼力でにらんで青ざめさせて追っ払ったというエピソードがあります。永倉は生涯新撰組としての意地を通していたんでしょうね。

永倉新八は大正4年に病没します。(虫歯をこじらせたのが原因。奇しくも斎藤一の没年と同じ。)永倉は新撰組の生き残りとして新撰組の顕彰を行い、新撰組関連の資料を著したのですがそこからそれまで「悪の人斬り集団」と呼ばれていた新撰組の再評価に繋がっていくため、今に至る新撰組人気というのは永倉新八なしではあり得ません。

それを思うと永倉新八こそ新撰組最大の功労者のように思いますがいかがでしょうか?




※この記事は池波正太郎の歴史エッセイ「戦国と幕末」の「新撰組異聞」の池波が永倉新八の孫である杉村道男氏への取材で書かれた項を基に書いてます。

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2012/04/23 22:42
なんといっても「新撰組始末記」は、永倉翁がいたからこその賜物です。
彼がいなければ、今こうして新撰組が語り継がれることはなかったでしょうね。
確かに最大の功労者かも。




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