Nicotto Town


つくしのつれづれノート


乃木 乃木坂…

最近AKB48などの団体さんアイドルグループが隆盛してます。正直軍隊の一個小隊に匹敵する人数のアイドルグループに対して否定的なのですが(数が多すぎ、バックダンサー込みのアイドルグループに見える…)、乃木坂46だけは気になっています。
いや、別にお気に入りアイドルとして気になっているわけではなく(第一メンバーの名前誰も知らないわけで…)、

グループ名乃木坂が日露戦争の旅順要塞を陥落させた陸軍大将・乃木希典に由来してるということを、ファンのどれだけが知っているかということこの一点に尽きます(笑)


この乃木坂、元々は幽霊坂と呼ばれていたようで、そこに乃木希典が自宅(現:乃木神社)を構えていたわけです。1912年の明治天皇の葬式の日にこの自宅で乃木夫婦が殉死(警視庁記録によると妻静子の自刃の手伝いをした後十文字に切腹し、最後の力を振り絞って喉を突いて絶命したらしい。)したことを悼んで赤坂区議会がすぐに改名したそうなのです。

乃木希典は長州出身の(正確には長州藩支藩長府藩の江戸詰藩士の息子)人物ですが生まれは六本木ヒルズにあった長府藩江戸屋敷だったりします。(この江戸屋敷、忠臣蔵四十七士の切腹が行われた場所のひとつして有名。)
16歳の時家出同然に萩に出奔し親戚の玉木文之進から学問を教わります。この玉木文之進、幕末ファンなら知らない者はいないと思いますが、松下村塾の創始者であり、吉田松陰の師匠だけでなく叔父甥の間柄だったりします。

要するに乃木は吉田松陰の弟弟子にあたるわけです。

ちなみに乃木が玉木の下に学ぶ数年前に松陰は処刑されてるため面識はない
と思われます。
しかしながら乃木と松陰は自ら死に向かう印象が共通してるような気がして、その源泉に受けた学問が影響してるのではないかと邪推してます。

さて明治に入り、乃木は藩閥のコネで22歳でいきなり陸軍少佐に任官します。この時さすがの乃木も有頂天だったと思いますが、直後に人生最大の試練が乃木を襲います。
士族反乱です。
乃木も各士族反乱鎮圧にかり出されることになりますが、萩の乱で玉木文之進の養子になっていた弟が反乱に加わり戦死、玉木文之進も責をとって自刃。さらに西南戦争で苦戦の末軍旗(連隊旗)を西郷軍に奪われてしまい、これを恥辱と感じた乃木は自殺未遂をくりえします。(一説には当時軍旗はさほど重要視されてなかったものの、乃木の一件から軍旗=天皇の分身と異常なまでに日本陸軍が神聖視するようになったといわれてます。)
親友・児玉源太郎(日露戦争時・満州軍総参謀長であり日露戦争全体の計画をした人物である。)などの同僚に止められますがこの士族反乱のショックは甚大なもので、西南戦争後乃木の夜遊びが激しくなり、祝言の日にも料亭遊びで遅刻したそうです。

それが一変したのが数年後の政府命令のドイツ留学からでした。ドイツ軍人の厳格さに感動した乃木は、帰国後それを体現するかののように身の回りを質素にし、朝から晩まで軍服で生活する(寝る時も軍服だったらしい)というスタイルに変わりこれが世間から乃木式と呼ばれたそうです。

乃木希典の戦歴において最も有名なのが日露戦争の旅順要塞攻略戦です。
1904年の日露戦争時に陸軍大将・第三軍司令官として旅順要塞攻略を命じられます。これは日清戦争時に旅順を乃木が1日で陥落したことが理由なのですが、10年前とは比べ物にならないほど強化されていた為、8月11日~翌年1月1日までの4回の総攻撃での陥落の間に合計45000人の死傷者を出すことになります。
そのあと満身創痍のまま第三軍は日露戦最大の陸戦・奉天会戦に臨むことになりますが、ロシア側は旅順を落とした乃木の第三軍を不死身の軍隊のように恐れ、第3軍の動向で陣形を大きく動揺させ敗退することになります。(日露戦争でで第三軍は死傷率60%と最も高い。これは旅順攻略だけでなく、奉天会戦でも第3軍が集中攻撃されたことが原因になっている。普通なら全滅と判断されてもおかしくない状態である。)
こうした功績で世界的大英雄となるわけなんですが、乃木本人は部下の将兵を多大に犠牲にした罪悪感が強かったらしく(さらに言うと日露戦争2人の息子が戦死している。)イベントで招かれた際の講演で
「自分は諸君の親兄弟を殺した者だ」
と泣きだして演説にならなかったという逸話があります。

こうした乃木を愛したのが明治天皇だったそうで、戦後乃木を学習院院長(学習院大学の前身)にさせ、明治天皇の孫に当たる後の昭和天皇の養育を任されることになります。
また乃木は日露戦争の傷病者・遺族への経済援助を惜しまなかったそうで、生きながらにして聖人扱いされていたそうです。

1912年明治天皇死去。(重体の際乃木はも知らずに横須賀駅におり、プラットホームで礼服を着て汽車を待つ大勢の海軍士官異様な光景で事情を聴き青ざめたといわれます。)その葬儀の際に自宅で自刃し、世界中を驚かせることになります。

この事件は日本文学にも影響を与え、夏目漱石の「こころ」・森鴎外の「阿部一族」と数々の名作が生まれることになるわけですが、乃木の評価は聖なる大英雄として続きました。
しかし戦後、これを真っ向から愚将と評価する作家が現れます。司馬遼太郎です。
司馬遼太郎作の「殉死」・それをプロトタイプにした大作「坂の上の雲」によって、乃木は稚拙な判断で死体の山を築いた愚将として批判されてしまいます。
司馬の乃木観は、乃木に不利な不公平な資料採用や司馬自身の戦争体験による陸軍嫌悪から来る感情的なものからきてると思われますが、この小説群(影響を受けた映画「二百三高地」も含め)によって乃木=愚将論が一気に広まることになります。

個人的に戦前は大英雄の名将・戦後は愚将とその評価が両極端であり、まともな評価をされていないのが、この乃木希典最大の悲劇なのかもしれません。



さて乃木坂46にかけて乃木希典を紹介したわけですが、この乃木坂46を乃木希典がどう思うかすごく気になります。さすがにに故人(死んだのちょうど100年前!!)なので知るすべはありませんが(笑)、乃木は学習院院長時代にミスコンで優勝した女学生を風紀を乱すとして問答無用で退学処分にしており(後に本人の意思での応募出なかったことを知り、同僚の陸軍元帥の息子(伯爵)との縁談をまとめたため、乃木の「大岡裁き」として有名)、もし乃木坂46が乃木神社でコンサートしようものなら、軍刀振り回した状態で化けて出るのではとにんまりしています。(笑)



ちなみに写真で見ると乃木はチワワに似ていると思うのは自分だけでしょうか?

あのウルウルしたチワワの目と瓜二つに見え、各写真を見てもチワワみたくプルプルしたらメチャメチャ似合うと思うのですが…
私つくしはチワワを見る度に乃木希典を思い出します!(笑)以上!!

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2012/06/15 21:08
オウギガヤツ様へ…司馬遼太郎が乃木を批判する原因の旅順攻囲戦ですが、当時日本軍はまともな近代要塞の攻略経験が全くなく、最初の旅順総攻撃の大被害を受けて慌てて要塞攻略専門書を輸入したという話が残ってます。なので他の軍司令官が旅順要塞攻撃を担当したとしても同様の結果になったであろうと思われ、現在の専門家は乃木を愚将としていないのが主流なんです。(「坂の上の雲」は乃木愚将論の急先鋒でありながらドラマ版は出演者のだれも乃木愚将論を信じておらず、ドラマ自体も乃木愚将論をぼかした状態に見えました。その為203高地攻略を外野から主張していたモックン演じる秋山真之はピエロ見たいに見えました。実際、秋山真之個人が203高地攻略を主張した事実はないわけで…)


ちなみに松陰にしても乃木にしても自ら死地へ向かうところが共通しており、(松陰は黒船密航失敗の後自首しているし、乃木はブログの通りです。)この傾向は幕末に非業の最期を遂げた久坂玄瑞をはじめとする多くの松下村塾門下生に見られ、こういった行動に至った原因は松下村塾創始者・玉木文之進のメイン学問である山鹿流軍学の思想にあるのではと司馬「殉死」で推測しています。
この山鹿流の祖山鹿素行は「陽明学」と呼ばれる儒学の思想家でもあったそうなのですが、この思想は何か事を起こす時に結果よりも過程を重視するものだったそうであり、これが上記の彼らを死地へ走らせた原因だというのです。
実は乃木の生まれた江戸藩邸で切腹した赤穂浪士たちも山鹿流軍学の影響下にあったそうで、成功・失敗のどちらになっても待ってるのは死しかないのにかかわらず討ち入りを実行するわけです。

こうした行動を起こした彼らを見ると、ヤバくなったら罵倒され乞食同然になってもしっぽを巻いて逃げてチャンスの到来を待って維新を実現にこぎつけた桂小五郎(木戸孝允・彼は松陰に師事してるるものの松下村塾門下生ではない。なので思想までは松陰に影響されてないのかもしれません。)とは対照的です。
もし彼らが苦境になってもみじめな状態になっても諦めずに確実に成功にこぎつける状態になるまで生きながらえてチャンスを待つという思想を根底にしていれば、むやみに死に走らず幕末維新の状況も様変わりしてたかもしれません。
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2012/06/15 19:19
チワワって!次から思い出してしまうじゃないですか(笑)
乃木さんは、松陰先生つながりで好感は持っているものの、「いいひと」なだけ、と思ってしまっているのは司馬さんの影響だと思われます・・・。




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