真田太平記!!(ドラマ小説じゃないよ)
- カテゴリ:勉強
- 2012/08/05 18:52:31
8月になっても未だに14年度大河ドラマの発表が行われてない状況なんですが、最近ネットで14・15年は1614・15年の大阪の役からちょうど400年目ということで、それを記念して真田幸村が大河の主役になる…という噂がまことしやかにささやかれておりまして、それに連動して真田特集をしちゃいます。
武家・真田氏といえば武勇知られた超有名な一族なわけですが、以外にも系図で確実にさかのぼれるのは幸村の祖父に当たる真田幸隆までで、その他は海野氏(「平家物語」の木曽義仲の重臣に海野幸広というのがいます。)と言う武家の分家らしいということ以外不明な所が多い一族なんです。
ただ、信濃国の真田郷(真田昌幸の上田城のある上田市の隣の東御市にあたる。)の土豪だったので真田氏と言うのは間違いないのですが…
とりあえず確実にさかのぼれる最古の真田当主・幸隆に関しては大河ドラマ「風林火山」で詳しくやってましたが1541年に回の戦国大名・武田信虎が侵攻した海野平の合戦に海野氏一族として参戦して敗れ、故郷を奪われて捲土重来を狙って関東の方へ身を寄せていたそうです。武田信虎が家臣によって追放されて晴信(武田信玄)の代になった際に武田家臣となってめきめきと頭角を現しはじめ、調略と武勇で1553年に北信濃の大名・村上義清を越後に追いやって旧領・真田を完全回復します。
村上義清が越後の上杉謙信を頼ったことで5回にも及ぶ有名な川中島合戦が展開されることになるわけですが、幸隆は最前線有力武将として活躍します。
真田幸隆の活躍は尋常ではなく、武田信玄治世下において外様家臣ながら譜代待遇だったそうで武田家内で繁栄することになります。
しかし武田信玄の死後の武田勝頼の代になってその運命は一変します。
1575年の長篠合戦で勝頼は織田信長に大敗を喫し、武田家は大きく傾き始めたのです。幸隆の後を継いでいた長男・真田信綱・二男・正輝がこの戦で討ち死にした為、信玄に期待をかけられて武田分家の養子となっていた3男・武藤喜兵衛が真田昌幸と改めて真田家を継いだものの武田の没落を抑えることができず、1582年3月の織田信長の武田攻めで武田家は滅亡。昌幸は織田信長の軍門に下ることになります。
ところがその信長もわずか3ヶ月後本能寺の変にて討ち死にし、旧武田領の勢力は徳川・北条・上杉の大国に取り囲まれたまま空白地帯になり、旧武田重臣ながらも小領主に過ぎない昌幸率いる真田家はその大混乱のど真ん中に放り出されることになります。
しかしここからが真の真田伝説が始まることになります!!
昌幸は滅亡した武田の旧臣の再雇用の受け皿になって真田家を強化、現在の上田市にある上田城を築いて大国に属さない独立路線を志向して真田氏に縁の深い上野の沼田に進出します。
これに反発したのが徳川家康であり、1585年に7000の軍勢を繰り出して上田に攻めよせます。対する真田昌幸は1200~2000。数の上では圧倒的に徳川有利。徳川軍は上田城を取り囲みます。ところが…
上田城を取り囲んだ徳川勢の周辺に配置した昌幸の嫡男・信幸(後の真田信之)らの真田分隊がゲリラ戦を展開しはじめ、徳川勢は大混乱の中1300人の戦死者を出して敗走します。(第一次上田合戦)
小大名が大大名徳川家康を破ったということで真田の知名度は一気に全国区になり、1584年の小牧・長久手合戦で戦術的に敗れた豊臣秀吉が接近して名実ともに豊臣側の大名になります。一方で家康も真田家を高評価し、猛将の重臣・本多忠勝の娘を家康を評価していた昌幸の嫡男・信幸に嫁がせることになります。これが江戸時代の真田家存続の礎になるわけですが…
その後、真田昌幸は第1次上田合戦の原因になった上野・沼田領をめぐり、今度は大国・小田原北条氏と争うことになり、そこをきっかけに秀吉の上方22万の軍勢による小田原征伐を発動。結果北条氏は滅亡、最後まで敵対した東北・米沢の伊達政宗も降伏して秀吉の天下統一が完成することになります。
そして秀吉の死によって天下は再び動き、1600年に関ヶ原の役(役としたのはこの戦いが関ヶ原だけにとどまらず全国規模で展開した為)が起こり、ここで反徳川の昌幸は豊臣側・本多忠勝が舅の長男・信幸は徳川方と袂を分かって対峙することになります。
昌幸は再び上田城にたてこもって主力38000を率いた徳川秀忠軍を釘付けすることに成功。(第二次上田合戦)家康は主力の待たずして本戦・関ヶ原の合戦に挑まざるを得なくなります。(家康軍には井伊直政・本多忠勝の猛将がいる37000の規模なのですが、クズ同然の寄せ集めの軍に過ぎず、本隊・秀忠軍が間に合わなかったことで家康側についた福島正則ら豊臣恩この大名に頼らざるを得なくなります。)
まさに昌幸は痛恨の一撃を家康の東軍に与えたわけです。
しかし本戦・関ヶ原合戦で家康が勝利し、大活躍した真田昌幸は敗軍の将となります。本多忠勝と長男・真田信幸の助命嘆願で死罪は免れましたが、昌幸は豊臣方についた一族と共に高野山に流されそこで生涯を終えます。一緒に流罪になった真田一族も朽ち果てていくはずでした…
時は流れ1614年、豊臣秀頼が建立した鐘の文字に家康がイチャモンをつけた「方広寺鐘銘事件」をきっかけに大阪の役が勃発。すでに周辺大名から見放されていた豊臣家は関ヶ原の敗戦で路頭に迷った浪人をかき集めて対抗します。その中に高野山を抜け出し赤備の兵を引き連れた真田昌幸の次男坊がいました。
彼は大阪城に入城するや大阪城外郭に出城「真田丸」を築いて待ち構え、大阪の冬の陣で攻めよせる徳川勢を一方的に屠ることになります。
彼こそ後に真田幸村と喧伝される真田信繁その人。(以後幸村で統一)真田幸村の武勇は一気に知れ渡ることになります。
(さっきから意図的に幸村の名まえを極力出さぬようにしてましたが、それは幸村の名が真田丸の活躍以前は全くの無名の存在だったからです。大阪城に入った幸村を家康が昌幸と間違えて慌てたという逸話まであり、幸村の当時の無名ぶりがうかがえます。)
しかし真田丸は幸村の主張する野戦案を退けられた代わりの苦肉の策ともいえ、大阪冬の陣の和平で真田丸は大阪城の外郭ごと取り壊され、翌年の大坂夏の陣でと豊臣家の滅亡は決定的になります。
幸村は決死の覚悟で赤備を率いて家康本陣に向かって突撃します。この突撃は凄まじく徳川勢も裏切りなどのガセによる疑心暗鬼で大混乱になり、肉薄された本陣の家康も自刃を覚悟したといいます。
結局、あと一歩のところで幸村は家康を取り逃がし、疲れ切った幸村は壮絶な討ち死にを果たします。しかし武田信玄の三方ヶ原合戦以来の家康本人の敗走は、幸村を敵味方問わずに「日本一の兵」と言わしめるヒーローとなっていくことになります。
幸村死後の真田家は昌幸の配流後、真田家当主となった信幸を改めた真田信幸が国替えにより上田城から松代城に移って(川中島合戦の最前線だった海津城のことです)小大名として幕末まで続き、幸村一家の方は二男が伊達政宗によって保護され以後仙台藩士として続いて今に至ります。
実は今回このブログを書くに至って幸村の兄・真田信幸の記述は別に特集する為極力排除しました。
池波正太郎の大作小説「真田太平記」の主人公真田信幸についてはまたの機会に特集します!!
請う、ご期待!!
門なんかソックリ!!