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つくしのつれづれノート


真田信幸(信之)伝!!

池波正太郎の大作「真田太平記」で主人公になったのにもかかわらず(しかも渡瀬恒彦主演で準大河ドラマになっている。)、真田幸村の陰に隠れがちの印象の薄い兄・真田信幸(後に信之に改名)。

はっきりいって総合力からしたら幸村こと真田信繁よりも兄信幸の方が格段に上と評価せざるを得ません。

今でこそ大阪の夏の陣で徳川家康をあと一歩まで追いつめた真田信繁が真田幸村の名で有名ですが、真田信繁は大阪の冬の陣の真田丸で武名を挙げるまでは挙げるまでは全くの無名の存在だったのです。信繁が流刑先から大阪城に下ったという知らせが徳川家康のもとに入った時、父真田昌幸か兄真田信幸が大坂方についたと勘違いして動揺したというエピソードは、信繁の知名度の低さを如実に表しております。

この兄信幸は第1次上田合戦をはじめ関ヶ原で袂を分かつまでずっと父昌幸の右腕だったこともあって真田特有のゲリラ戦術の名手として名高く、第1次上田合戦以前の本能寺の変の混乱期に800人の兵を率いて奪われた手子丸城に入った5000人の北条軍を破って城を奪還したという華々しい戦歴の持ち主です。(城の手薄な区画から侵入して放火とデマで混乱させて城を奪還したという。この時の信之の実働部隊は200人にも満たなかったらしい。)

他にもゲリラ戦法で北条軍・上杉軍の大軍を退けており、現代の印象としてソ連のアフガニスタン侵攻の際にゲリラ戦術を駆使してソ連の大軍を翻弄したイスラム義勇戦士のムジャヒディン(このなかにビンラディンもいたわけですが…)に似てるような気がします。

そんな父昌幸譲りの武略の持ち主の信幸なんですが大名として考えると父・昌幸以上に政治にも優れていると思われ、第一次上田合戦で徳川勢を退けた後昌幸は死ぬまで反家康を貫いてた中で信幸は家康を評価して接近して家康の重臣の猛将本多忠勝の娘を娶り、親家康として関ヶ原後の真田家生き残りに繋げます。(家康自身は晩年まで何度も真田に痛い目に合わせられたのにもかかわらず、この真田信幸には極めて好意的で信頼も厚かったようです。(ちなみによく言われるのは真田家を二つに分けてどっちが勝っても真田家が生き残るようにしたという話が有名ですが、自分は出来過ぎのような気がするのですがいかがでしょうか?ただ関ヶ原後の昌幸への助命嘆願や幽閉先への生活支援など父昌幸を見捨てませんでした。)

そして関ヶ原で父昌幸の為に合戦に間に合わなかったことを根に持つ徳川秀忠(実際は家康の出陣命令が河の氾濫によって秀忠のもとに届くのが遅れたのが原因だとか…秀忠はこの時のトラウマで大阪の役の時に強行軍で兵を大阪に進めてダメにしています。)によってからの嫌がらせをことごとくかわして明治まで真田家を大名として存続させることになります。


信幸(関ヶ原後信之と改名しますが)江戸時代がはじまってから55年後の1658年の93歳まで生きていました。人生50年なんて言われた当時としては現在感覚として140歳以上生きてたバケモノみたいに見えたのでは…

世はすでには4代将軍徳川家綱の時代!!

特に江戸幕府開幕直後に誕生した文字通りの「生まれながらの将軍」である3代将軍徳川家光は(合戦経験が無いためか、伊達政宗・藤堂高虎・毛利秀元・立花宗茂といった戦国時代を生き抜いた武将達を御咄衆として置き、合戦の話を聞くことを好み、特に伊達政宗については実の親の如く接していたとのことです。ちなみに信之は上記の御咄衆のメンバーが皆死去した後も生きていました。)信之を「伊豆守は天下の飾りである」といって再三の信之の隠居願いを許さず92歳まで真田家当主を務めることとなったようです。
晩年には幕府内でも織田信長・武田勝頼などを生で見知った最後の戦国武将として尊敬を受けたことは想像に難くないと思われます。

 

こうして見事真田家を幕末まで存続させたわけなんですが、この信幸という人は上田から松代への国替えの際に嫌がらせへの仕返しに上田統治の重要資料をことごとく焼いてしまったりと反骨精神の持ち主だったりします。

その最たる逸話として挙げられれるのが家康から拝領した短刀の話。

これは家康から拝領した短刀を箱に収めた上に見張りの兵まで付けて江戸時代中ずっと開けずに守ってきたそうですが、明治になって開けてみたら短刀と一緒に石田三成からの西軍への寝がえりを誘う書状まで入っていたということです。(これは松代か上田の真田資料館に収蔵されてたと思います。)

 

ちなみにこの真田信幸という人物は生前着用していた着物・甲冑から推測するに身長185センチの大男だったということです。これは幕末の坂本龍馬よりもデカイ!!180センチ以上と言われてます。)





≪追記≫ちなみに松代藩真田家は明治維新まで続くわけですが、途中信之の血筋は絶えてしまった為に他家から養子が入ります。幕末の佐久間象山を見いだした江戸後期の藩主・真田幸貫は徳川吉宗のひ孫に(吉宗の孫で寛政の改革の松平定信の二男)あたり、家格は外様大名なのですが血筋の為か譜代扱いの幕府の老中に抜擢されています。

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2012/08/10 23:18
オウギガヤツ様へ…戦歴も本来なら華々しく昌幸の嫡男として着実に真田家を後世まで残したのにたった一度を山当てて非業の死を遂げた弟幸村の影に隠れがちなのが残念でなりません。
義経も信長も龍馬もそうですが日本人って非業の最期(もしくは志半ばで死んだ人)遂げた人本当に好きですよね。
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2012/08/10 12:23
真田話第二弾♪
自分も、よくできた長男だと思います。
徳川の目が厳しい中、お殿様気分のままの父親の催促にも頑張って応えているし(笑)いいひとです。
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2012/08/09 12:09
吉乃様へ…さすがに将軍(もしくは将軍就任前)の家光が辻斬りを働いたとは思えませんが(本当にやってたら幕府の存続自体危うくなるような気が…)城を抜け出してお忍びで城下町散策したのは本当らしく、有名な落語ネタ「目黒のさんま」(お忍びで目黒に行ったときに食べた焼きさんまにハマってお城の献立に入れてもらったところ、毒見の為に冷えたさんましか出てこなかったという話。そういえばこの落語にちなんで目黒でサンマ祭りがあったような…)をはじめ多くの時代劇のネタになっています。
将軍になっても外遊びが収まらなかった為父同然になついてた伊達政宗が「自分も家康の首を狙ったことがあるから軽率な行為を慎め」(幕臣から頼まれて)といさめられたという話が残ってます。
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2012/08/09 10:25
真田家の事は通り一遍のことしかしらなかったわ
勉強になります

ところで徳川家光は合戦の話が好きでと書いてありますが、テレビ情報で夜な夜な江戸の町に出て人を切っていたとあったのですが、ほんとうなのかな???
諸説あるから解らないね




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