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つくしのつれづれノート


司馬遼太郎のノモンハン

作家・司馬遼太郎が小説・エッセーなどの作品を執筆する為に集められた数万冊にも及ぶ資料の中に検証を終えておきながらついに作品執筆に至らなかったものが存在します。

それがノモンハン事件(1939年に満州国とモンゴルの国境線をめぐって日ソ両軍が激突した国境紛争。全面戦争にならなかったものの日ソ両軍合わせて十五万弱の兵士が動員された大規模な戦闘である。)~太平洋戦争までの日本が敗戦に向かって何百万の国民を死に至らしめた歴史の闇をテーマとするものでした。

 

このノモンハン・太平洋戦争も含めて十五年戦争(1931年の満州事変~1945年の敗戦までの紛争・戦争状態を指す言葉)とよく言われるのですが、この戦争は作家・司馬遼太郎の原点になる事件でした。

  

太平洋戦争の敗色の濃くなった頃から行われた学徒出陣。その学徒出陣に当時学生だった司馬遼太郎も動員され、戦車小隊の隊長(陸軍少尉)となっていました。(当時の司馬がの乗っていた日本の戦車はブリキのおもちゃのように装甲が薄く、それを精神で補えというとんでもないものだったといいます。)敗戦直前の1945年、来るべき本土決戦の為司馬のいた戦車隊は満州から栃木県佐野市に移ります。

現実に本土決戦が行われた場合に防衛に向かう戦車隊の前に大混乱する市民を前にるはず…その際にどうすればいいのかと司馬は参謀本部から出向した上官に尋ねたところ、
「軍の作戦を優先して轢き殺して進撃しろ」
と平然と言い放ったそうです。

国の同胞を守る為に戦ってきたと信じてきたのに、同胞を平然と犠牲にする有様がまかり通る軍と国に絶望した1週間後に戦争が終結します。司馬遼太郎、時に22歳。

なぜこんな国になってしまったのか、昔の日本はもっとましだったに違いない…
後に執筆された沢山の歴史小説は戦争で絶望した22歳の自分にあてた手紙であったと常に司馬は述べていたといいます。日本の敗戦は「日本とは日本人とは何か」を貪欲に探究する歴史作家・司馬遼太郎の誕生の瞬間だったんです。


 ノモンハン~45年の敗戦にいたる物語は、司馬が「竜馬がゆく」「国盗り物語」「坂の上の雲」などの様々な歴史小説で描いたかつての先人が己の命を引き換えにしてつくってきた日本が日露戦争後どのようにして破滅に至ったかをたどる内容を構想してたとされ、司馬遼太郎が死の直前まで執筆していた「街道のゆく」も最終作と予定していたかつて司馬が戦車隊として配属されていた上記の「栃木県佐野」編と合わせて、まさに「日本とは日本人とは何か」を探求してきた司馬遼太郎の作家人生の帰着点となるはずでした… 

しかし司馬がこれを書くことはありませんでした。ノモンハン~敗戦に至る物語を執筆するには軍の統帥権を握るとされる天皇というタブーに触れることになる上に日本の最大の闇を描いて読者を暗澹な気持ちにさせることへの抵抗があったといわれています。
多くの編集者からこの資料検証を終えて書くだけのノモンハンを書かないのかと尋ねたそうですが「小説として書くことがない」「ノモンハンを書いたら自分は死ぬ」と答えてとうとう執筆することなく挫折します。
 
司馬の死後、遺した資料をもとに司馬の担当編集だった半藤一利が「ノモンハンの夏」を執筆することになります。「ノモンハンの夏」を読んだ感想として歴史ドキュメンタリーといった内容であり、とても小説といえるものではありません。戦時中を生きていた人間にとってこの戦争は授業や本である歴史ではなく実体験であり、客観的に書くことができないということなのかもしれません。この時代を客観的な歴史小説として成立させるにはさらに長い年月を必要とするのだと思います。

 ノモンハンを挫折した晩年の司馬は自分が体験した戦争の敗戦以上に現代日本の状況を深刻に見ており(恐ろしいことに今現在司馬の予見した通りになっているように見えます)、その中で司馬は長編作品に匹敵する労力でひとつの短編作品を執筆します。
それが「二十一世紀に生きる君たちへ」です。
国語に教科書にも収められているため、今の学生さんの中でも知っている方が多いかと思われます。これはそれまで22歳の自分に向けて小説を書いてきた司馬が未来を生きる子供に向けて書いた作家・司馬遼太郎の遺言であり、司馬小説のエッセンスの全てが凝縮されています。


未来を作る子供に司馬遼太郎は希望を託したのかもしれません。





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