Nicotto Town


つくしのつれづれノート


川越城!!

今回自転車旅行の目標とした3城の最初に到達したのが埼玉の川越城です。5年前に一度川越城はアタックしてるのですが、当時100名城スタンプ開始間もない時期の混乱でスタンプを手に入れることができなかった為、今回はリターンマッチということになります。

川越城は関東の覇権をめぐって扇谷・山内の両上杉と北条氏康(早雲から数えて3代目)が戦った戦国三代奇襲・川越夜戦(1546年)の舞台になった城です。(残り二つは織田信長が今川義元を討ちとった1560年桶狭間合戦と、毛利元就が陶晴賢を討って安芸の国人から一気に安芸・長門・周防3国の戦国大名に成長することとなった1555年厳島合戦)



元々川越城は1457年太田道灌がおやじとともに主君扇谷上杉の居城として築城し、武蔵国の覇権をめぐって扇谷上杉・山内上杉・古河公方足利氏(足利将軍家の分家の鎌倉公方家の末裔)の三つ巴の戦いに舞台になってたのですが、同時期に相模を平定した新興勢力・北条氏2代氏綱が侵攻して1524年に川越城を扇谷上杉から奪い北条の武蔵平定が確立します。これを覆さんとして1545年9月に扇谷上杉がライバルの山内上杉と古河公方足利家と連合を組んで北条方の城となった川越城を攻めたのが(すでに北条3代氏康の時代になっていた)の川越夜戦の始まりでした。

川越城を守っていたのは北条綱成(氏康の義弟であり元は福島綱成という今川義元に追放された今川家家臣である。)率いる北条軍3千
それを攻める扇谷・山内・古河公方連合軍は

なんと8万!!(本当にこれだけ動員できたのか疑わしいところですが…)

しかも連合軍に呼応して今川義元が侵攻してきて氏康はすぐに川越に援軍を繰り出せない状況であり、まさに絶体絶命の状況でした。
ところが綱成率いる川越勢は8万対3千の絶望的な状況下で北条氏康の援軍を待って半年間籠城持ちこたえることになります。
その半年のうちに氏康は武田信玄の仲介で今川義元と和睦し(後に3国同盟を結ぶことになる。)、8千の援軍を率いて川越に向かいます。

それでも8万対1万1千!!
普通なら勝ち目はありません。しかし…

この状況下で連合軍は勝利確実と油断しきっていたんです。連合軍の陣は毎晩遊女を招いた宴会のどんちゃん騒ぎをしていたとか…

これをチャンスと見た氏康は全軍を以って一気に夜襲をかけて8万の連合軍を敗走させてしまったのです。時に1546年5月19日!!

連合軍の戦死者は1万3千~1万6千といわれ、扇谷上杉は当主・上杉朝定が討ちとられて滅亡・古賀公方も北条の傘下になり関東の勢力図は一気に北条氏によって塗り替えられることになります。
山内上杉も北条によって関東を追われますが当主・上杉憲政が越後に逃れて長尾景虎に家督を譲り、以後長尾景虎改め上杉謙信と北条氏の関東の覇権をかけた壮絶な戦いが繰り広げられることになります。
(川越城を守った北条綱成は自分ちの近所にある玉縄城の城主になり秀吉の小田原征伐においては小田原落城後も籠城を続けることになります。)




そんな川越城は現在城の大部分が開発によって消えているものの幕末に建てられた本丸御殿の一部が現存し(本丸御殿が現存してるのは高知城と川越城のみ)、当時のまま残っている蔵造りの旧市街が「小江戸」として観光地になってるわけです。
8月15日に自分は川越に行ったわけですが、湿気の凄まじい中旧市街は車の大渋滞と観光客のごった返す壮絶な状況になっており、とても観光どころではありませんでした!!川越城御殿の前で名物焼きそばを食べて早々に鉢形城攻略に乗り出したわけです。

やはり秋の涼しい時に川越は堪能したいですね…(と言いながら今回のお目当ては100名城スタンプに絞ってたこともあってさほど無念ではないのですが…)


ちなみに川越は江戸城の遺構が沢山移築されている地でもあり、喜多院の寺内に徳川家光誕生の部屋・春日局の部屋などの江戸城御殿の建物が複数移築されており、江戸初期の御殿(江戸城移築建造物)と幕末の御殿を見比べることができるんです。川越観光としてお城と喜多院のセット観光はおススメですよ!!










それと川越の旧市街で今回の自転車旅行で唯一お土産を買いました。
川越の地ビールの小江戸ビール
なんと芋ビールです!!
以上!!

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2012/08/21 15:15
吉乃様へ…合戦で指揮官クラスの武将が狙われやすいのは、戦国時代の軍将校は今の軍の士官学校みたいに量産できる状態ではないので替えがなかなか効かず討ちとられたら指揮系統の混乱もしくは軍組織そのもの崩壊に簡単に繋がるからだと思われます。
特に総大将となると軍組織のトップだけでなく一国の政治のトップでもある為なおさら替えが効かず、討こちとられたら国の滅亡にも係わるからその動揺であっという間に軍勢が散ってしまうのは当然だと思います。絶頂期の今川義元の討ち死からわずか8年で軍はおろか国家システムまで崩壊して滅亡してしまったのは代表例と言えます。
まあそれだけ指揮官クラスの喪失はやばいのでどこかしら安全策はとっていると思われ、野戦でのでの総大将の戦死ってのはほんとうに珍しいことなのだそうです。(桶狭間・川越・厳島の三代奇襲はその珍しい大勝利な為脚光浴びてるわけです。)

芋ビール大変まろやかでした。
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2012/08/21 14:11
スタンプゲットおめでとうです
芋ビールも面白そうだね~^^

今川とかこの話聞くとさ~何時でもそうだけど多勢の部隊を打ち負かしたって話がある時は
どちらかが油断して宴会してそこを襲われたという話多いねえ
桶狭間もそんな話だった気がするね
それにしてもあの話聞くと何時も思うのだけど
今川って大群だったじゃない?きっと副将とか一族とかも戦に参加していると思うのだけど
どうして大将がやられるとみんな散り散りになるんだろうね
不思議だわ~
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2012/08/20 13:28
寝子様へ…川越のお城は国内に二つしかない本丸御殿が現存するということでその筋では有名なのですが(しかし川越城は部分的しか残ってませんが…)それ以外の遺構は大分破壊が進んで廃れてるようであり、小江戸と呼ばれる蔵造りの旧市街に比べると確かに地味でマイナーですね。戦国時代ファンにとってはこのお城はブログの通り派手な戦歴なのでたまらないかもしれませんが…
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2012/08/20 01:20
川越にお城があるって知りませんでした!




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