箕輪城!!
- カテゴリ:レジャー/旅行
- 2012/08/23 15:20:00
先週の自転車旅行の最終目的地点だった群馬県高崎の箕輪城。この城以外にも信濃真田氏にゆかりの深い城だったりします。
現群馬県の上野国は戦国後期には上杉謙信・武田信玄・北条氏康の大勢力が三つ巴の状態で拮抗していた地域であり、箕輪城は武田信玄が上杉方の豪族・長野氏から奪ったそれぞれの勢力圏が隣接する最前線の城だったのです。その為武田信玄が箕輪城を奪取した時城の防御力をアップさせる必要があったわけですが、その為の改築の責任者となったが武田家臣となっていた真田幸隆と息子真田昌幸(恐らく当時は武藤姓。真田信之と幸村は昌幸の息子)だったのです。
改築が完了すると同時に箕輪城は武田譜代家臣内藤昌豊が城代になって真田の手を離れることになりますが、それまでに真田派の武士団を多く抱える地盤にしていたらしく、これが主家武田家滅亡後に小大名として独立した真田昌幸が上野へ進出する動機になったものと思われます。結局真田氏の家の進出は沼田方面でストップしますが(それでも上野の5分の1はしっかり切り取っているわけで驚きです)、十分な力と時間が備わっていれば間違いなく箕輪城方面の進出を実行していたことでしょう。
昌幸の上野進出の進出への執念は凄まじいものがあり、後に北条氏との領土紛争の末一時は豊臣秀吉の裁定で沼田領を手放した際に武力挑発で北条氏滅亡に至る小田原征伐のきっかけを作ってしまった程なんです。(結局小田原征伐後に沼田領は晴れて真田家のものとなり江戸時代も引き続き領有することになります。しかし真田信之の晩年に起こったお家騒動によって真田家は本家松代藩と分家沼田藩に分裂して対立を続け、沼田藩は松代藩に対抗して家格を上げる為に暴政を重ねた結果5代将軍徳川綱吉によって取り潰されてしまいます。)
・… え~、話がそれました。そんな真田家が喉から手が出るほど欲しがったと思われる箕輪城。武田家滅亡後は北条氏の城となったわけですが、小田原征伐後に旧北条領をそのまま引き継ぐことになった徳川家康の関東入府によって徳川の城となり、結局真田家のものにはなりませんでした。残念!!で、箕輪城主となったのは…
後の初代彦根藩主・井伊直政でした。
直政は家康の関東入府の際徳川家臣中最高石高の12万石で箕輪に封じられ、関ヶ原合戦後に旧石田三成領の近江・佐和山城に移るまで所領としていました。(彦根藩は直政が拠点を佐和山から琵琶湖沿岸の彦根山に移したことで成立。彦根藩35万石は譜代大名中最大。ちなみに彦根城は直政の死後の築城なので直政は彦根城主ではありません。)その為、現在の箕輪城の以降は井伊直政時代のものなのですが、関ヶ原の合戦直前に拠点を現在の高崎市街地に位置する高崎城に移してた為に江戸時代を待たずして廃城になったそうです。
その箕輪城、群馬南部の高崎市の平地にあると思ってたのですが、実際は高崎市街地から10キロ以上北の長野・新潟を挟んだ峻険な山々の麓に位置しており(具体的に言うと榛名山麓に築城された城です。)、緩やかな坂道を登っていくことになります。普段ならこれくらい何てことないのですが前日の埼玉県・鉢形城攻略で体力を消耗してた為にすごいしんどかったのを思い出します。それでも早朝に出発したのが幸いして最高気温になる前に箕輪城に到達しました。(この日の前橋の最高気温は37度。気温が涼しく余力があったら群馬の太田市の新田荘(鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞の所領の遺跡。平安鎌倉期の武家荘園の遺跡がそっくり残っている為貴重)の資料館に行くつもりだったのですが…)
…で、この箕輪城の100名城のスタンプは箕輪城の城あとではなく、箕輪城の南に位置する箕郷支所と言う役場の受け付けで手に入れることができます。この箕郷支所、住宅地の真ん中に位置してる状態なので見つけるの難しいかもしれません。ナビを見ながらでは問題ありませんが、判らない場合は近くのコンビニで道を聞いた方がいいかもしれません。以上!!
後これとは別に今回の自転車旅行で川越で食べたご当地焼きそば・川越太麺焼きそばとお土産に持って帰った芋ビール・COEDOビールについて別に書きます。
詳細情報参考になります、有難う御座います♪
前回ナビで失敗したので、今回は地図見ていく予定なのですが。コンビニで聞くようにします!
それにしても、大変そうなのがよくわかるよ
この暑さに加えて距離も半端ないでしょう?
よく、ちゃりんこで行こうと思うねえ感心するよ、私は無理だわww子供の頃やって座絶したものww
そういえば名古屋ではちゃりんこの事ケッタマシンって言って、子供の頃はケッタって言ってたわね
懐かしいわw
ご苦労様です!昨日は残念でしたね・・・;
私だったら書くの諦めてましたがすごいです~