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つくしのつれづれノート


激闘!!川中島合戦

今日は戦国史上もっとも名高い大合戦・第4次川中島合戦(八幡原の戦い)が勃発した日です。

川中島合戦は武田信玄の信濃侵攻によって北信濃を追われた村上義清の捲土重来を支援する為に上杉謙信が信濃に出兵したことに始まる合戦群の総称であり、1553年~1564年の約10年の間に大小5回に及ぶ合戦が繰り広げられました。
結果だけ見ると北信濃に固執して10年も退陣してる隙に、織田信長の台頭を許して両者とも足元をすくわれてしまう為に徒労といわれても仕方ないのですが、各合戦とも時には200日以上対陣になったり、チェスもしくはグレート・ゲームさながらの軍展開なされる両軍の知力を結集した合戦な為、後世において絶対的な知名度と尊敬を集めるに至るわけです。
その地位を確立した最大の武力衝突となった合戦がこの1561年の第4次川中島合戦であり多くの逸話を生みだいて伝説なるわけです。



まあなんて長い前置きだこと…とりあえず以下は第4次川中島合戦の概要。

事の発端は1561年上杉謙信(当時は上杉政虎)が関東制圧達成の為、背後の武田を叩く目的で善光寺まで進出したことに始まります。真っ先に武田の最前線・海津城(現:松代城)が攻撃対象になる為、武田信玄も大軍を率いて救援に向かいます。
8月16日、上杉勢は海津城を攻略せずに海津城西南の妻女山に布陣し、そのまま居座ることになります。8月29日、武田主力も川中島到着、海津城に布陣し対峙し以後10日にらみ合いが続きます。

武田勢20000に対して上杉勢12000

数の上では武田勢有利なのですが上杉謙信は野戦において戦国最強といわれる天才指揮官である上に(その為信玄だけでなく、北条氏康ら多くの武将が真っ向からの野戦を避けて城に籠っています。織田信長ですら1577年の手取川合戦(信長が柴田勝家を派遣した合戦)で叩きのめされます。)、妻女山への布陣で城攻め並みの労力がかかる為明らかに不利。
そこで武田信玄は軍を2つに分けて別動隊が妻女山の背後を突いて平原の八幡原まで追いだし、待ち構えた本隊と挟み撃ちににして殲滅する作戦に出ます。これぞキツツキが背後を脅かして出てきた虫を捕まえる動きになぞらえたキツツキ戦法。(山本勘助発案といわれてますが、軍師・山本勘助の存在自体がフィクションな為かなり怪しい。)8月9日深夜に武田勢は本隊8000と別働隊12000で海津城を出陣、キツツキ戦法を展開します。
翌8月10日の早朝の深い霧の立ち込めるなかで武田信玄が指揮する本隊8000は八幡原に布陣し、別働隊12000によって敗走する上杉勢を待ち構えてました。うまくいけば起死回生の大勝利となるはずでした…
しかし、霧が晴れたとき武田信玄はあり得ない光景を目の当たりにし驚愕します。

武田本隊の目の前に無傷の上杉勢が待ち構えてたのだ!!

謙信は海津城の様子からキツツキ戦法を見破っており、夜のうちに密かに妻女山を下山して千曲川を渡り、(頼山陽が漢詩「川中島」の「鞭声粛々夜河を渡る」の名文の如く万を超える大軍の隠密行動はあまりにも見事すぎます。)武田本隊の目の前に布陣していたのです。
武田別働隊は妻女山がもぬけの殻状態であることに「しまった!」と思ったことでしょう。しかも謙信も別働隊1000を組織して武田別働隊を待ち構えていた為、容易に武田本隊に合流できない。
武田本隊8000に対して上杉本隊は野戦の天才・上杉謙信が率いる11000!!
まさにキツツキ戦法が裏目に出た最悪の状況となったわけです。

午前8時、霧の晴れ上がると同時に上杉本隊は車懸りの陣(次々新手を繰り出す陣型ということですが詳細は不明。防御陣形の方円の陣が攻撃に転じたのがそれではないかといわれてます。)で武田本隊に襲い掛かりました。
武田本隊は鶴翼の陣形で防戦するものの次々と各部隊が突き崩され、信玄の弟の武田信繁や山本勘助・諸角虎定・初鹿野忠次の有力部将が討ち取られて行きます。
そしてついに上杉謙信自ら手薄になった武田信玄本陣に斬り込みにかかります。名馬・放生月毛に跨がり、名刀・小豆長光を振り上げた謙信は床机に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、信玄はとっさに軍配をもってこれを凌ぐという伝説の一騎打ちはこの時のものだといわれています。(あまりにも名場面すぎる為フィクションの可能性が高いのですが、謙信自ら太刀を奮っ太激戦なのは事実であり、ありえない光景ともいいきれない)
まさに武田信玄絶体絶命!!

しかしその時正午12時、武田別働隊12000が上杉別働隊の防衛ラインを破って八幡原に到着したのです。形勢逆転!!上杉勢は挟み撃ちになり、善光寺へ向けて撤退を開始し、武田勢も夕方4時に追撃を諦めて第4次川中島合戦は幕を閉じます。
勝敗は午前は上杉、午後は武田の勝利の引き分け。
武田4000・上杉3000の合計7000を超える戦死者を出して千曲川・八幡原一帯が血で染まったといわれています。





…と以上が第4次川中島合戦のあらましなのですが、
実はこの両軍の戦死者数は日本の合戦史上はおろか世界戦史上、余りにも異常過ぎる戦死率の高さなのだということです。(関ヶ原合戦でさえ両軍15万以上の合戦の戦死者数は合計8000である。)その為
濃霧の中で両軍が八幡原をさまよっている中で不幸にも鉢合わせし、大混乱の中敵味方判らず斬り合う乱戦の結果の大惨事がこの合戦の真相という説が有力になってます。

あの戦死者数はそうでなければ説明できず、その他状況証拠も合わせてかなり信憑性が高いということです。
なんともはや…


この第4次も含め全5回10年に及ぶ川中島の合戦の結果武田信玄は信濃全域を掌握するに至るわけですが、そのさなかで織田信長の畿内での勢力拡大を許し、信玄死後長篠合戦んで大敗の後1582年に滅亡。(信玄死後9年後の事でした)上杉も謙信死後信長によって滅亡寸前に追いやられてしまうという(信長死後もその勢力を盛り返すことなく、江戸時代の忠臣蔵事件の頃には最盛期120万石あった国力が15万石に落ち込んでしまいます。)、結果だけ見たら歴史のターニングポイントにならない徒労になってしまうわけです。

しかしこの合戦は直後から天下をとどろかせる名勝負として称賛され(早い段階で史跡保存がなされていたとか…)、絶対的な支持を以って語り継がれることになります。
その理由は二人の英雄が竜虎相争ってぶつかり合うロマンティシズムを多くの者に与えているからにほかなりません。
今後も戦国最大のハイライトとして語り継がれることでしょう。
Jリーグでもヴァンフォーレ甲府とアルビレックス新潟の試合が川中島ダービーとして盛り上がってましたからね。
川中島よ、永遠なれ!!







・川中島合戦を舞台におススメ作品
大河「天と地と」(69年)…石坂浩二の謙信と高橋幸治の信玄の一騎打ちが見ものです!!
   「武田信玄」(88年)…川中島合戦は大河合戦の最高傑作!!
   「風林火山」(07年)…「風林火山」は民放でも92年・06年と2回やってます。

映画「風林火山」(70年)…三船敏郎主演。合戦映画のの最高傑作のひとつ。一般に勘助の鎧として出回ってる甲冑の元ネタはコレ。
   「天と地と」(90年)…赤と黒で分けられた両軍の激突は圧巻なれど映画より宣伝の方が金かかってる気が…

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2012/09/11 18:02
吉乃様へ…近代以降と違って戦国時代はあえて旗差物や馬印を高く上げて本陣の位置をアピールしていました。理由としては敵の威圧や味方の鼓舞だけでなく、陣形を変える際に起点となる本陣を示してく必要がある為とも思われます。川中島のように本陣を攻められた際にはさすがに旗差物・馬印をおろして本陣を隠す必要がありますが、そうなると士気の低下で全軍総崩れになりかねないので難しいかもしれません。(多くの場合は本陣を後退させるそうです。)
それを逆手にとって旗差物を増産してダミー本陣を作って攪乱する場合があるそうです。
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2012/09/11 17:22
みのり様へ…川中島合戦って4次のように海津城(現:松代城)付近で行われたばかりではなく、上杉方(当時は長尾景虎)が城攻めをしながら松本城近くまで進撃したり(第1次 大河「風林火山」では山本勘助(武田軍師)と宇佐美定満(上杉軍師)がチェスのように軍を動かす様はすごかったです。)、武田方の城の前に上杉勢が城を築いて対抗したり、200日にわたって睨みあったり(第二次)、戦のバリエーションが豊かなのに驚かされます。

それと川中島に限らず合戦の戦死者の8割以上が農民上がりの足軽雑兵だったりします。しかし当時の冬は豊作協作に関係なしに餓死者を出す状況だったので嫌でも戦で出稼ぎせねばならない状況だったみたいです。それを考えると確かに切ないです。
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2012/09/11 13:16
川中島っていうと映画なんかでは上杉謙信が馬に乗って本陣に駆け込みきりつけ
それを信玄が阻止するって言う画面がつかわれるよね
そんな銅像もあるしw
でもさ基本戦って本陣がばれないようにするのが本当だよね???
激闘のイメージをロマンチックに表現出したという事なのだろうね
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2012/09/10 23:47
じっくり読ませてもらいました。
私川中島の合戦て第4時合戦のことを指すのだと思っていました。
とても勉強になりました><
それにしても乱戦てせつないなあ・・・・。
読みながら合戦場にいる気分になっちゃっいました・・・・




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