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つくしのつれづれノート


天下分け目の関ヶ原

今日は関ヶ原の役の本戦・関ヶ原合戦で徳川家康率いる東軍が石田三成のかき集めた西軍を破ったまさにその時であります。時は1600915日。この合戦の勝利で家康は江戸幕府を開き、以後明治維新までの260年以上にわたる泰平の世を築き上げることになります。

 関ヶ原というとその名称からどうしても美濃・近江の境である関ヶ原に全国の東西両軍が結集して天下の趨勢をかけて戦ったように錯覚しがちですが、実際はほとんどの諸大名が東西に分かれ全国各地で合戦を繰り広げた日本史上最大級の戦乱だったのです。
その勝敗を決し一気に全国の合戦を収束させたのがこの本戦・関ヶ原合戦なのですが、この合戦は両軍15万以上の将兵を動員したのにもかかわらず、
驚くべきことに開戦からわずか6時間で勝敗を決しました。

なぜそうなったかこの関ヶ原の役を本戦・関ヶ原合戦をクライマックスに順にたどってみることにします。  


全ては1598年の天下人・豊臣秀吉の死から始まりました。秀吉の死によって国内最大の実力者となった徳川家康は政権の奪取に向けての運動を本格化させました。
その家康がその決め手として目論んでたのは合戦で大軍を動員することによって一気に政権奪取であり、次々と大大名に言いがかりを付けて挑発にかかります。
その最初の標的となった前田利長(父は前田利家)は生母芳春院(利家の正室「利家とまつ」のまつです。)を人質に差し出して戦を回避、続いて標的になった上杉景勝は俗に言う「直江状」(直江兼続作成)を送って真っ向から対抗します。これを受けた家康は自らになびく諸大名を率いて上杉征伐を発動。1600615日に大阪城を発して東北に向かいます。

この家康の出兵による政治空白を狙って行動を起こしたのが反家康の急先鋒石田三成でした。三成は打倒家康の軍勢を募って挙兵します。上杉勢との挟み撃ちによって家康を圧倒しようとしたのです。
こうして家康の東軍と反家康の西軍の対立構図が成立し、全国各地に合戦が飛び火する関ヶ原の役が幕を開けます。 

石田三成挙兵を知った徳川家康は725日の下野の小山評定で東軍の方針を固めて反転、反三成の福島正則ら豊臣武断派諸将が先行して西進、続いて徳川軍が徳川家康33千と徳川秀忠38千の2組に分かれそれぞれ東海道・中山道を使って西進し東西両軍の激突が予想される美濃への合流を目指します。
一方石田三成がかき集めた西軍はまず家康の畿内における本拠伏見城を攻め落として東進、美濃の大垣城に集結して東軍を待ち構えます。
西軍の総大将は西国最大の大名毛利輝元。三成は公正名大な官僚として有能な半面度量のせまい男として人望が乏しかった為、打倒家康の張本人にもかかわらず総大将にはなれなかったのです。しかも毛利勢は反家康派・親家康派・中立と家中がまとまっていないうえに総大将輝元自身も積極性に欠け,最後まで大坂城に籠る始末でした。この毛利勢の優柔不断が関ヶ原本戦に重大な影響を及ぼすことになります。

914日、徳川家康の軍は先行の諸将と美濃にて合流しました。しかしここで大誤算が…
中山道を行く徳川秀忠軍の進軍が遅れて決戦までの合流が間に合わなくなったのです。(第二次上田合戦で真田昌幸による足止めが原因とよくいわれるのですが、実は関ヶ原本戦前の大雨による川の増水で足止めを食らったのが原因。)この秀忠軍こそが徳川精鋭の本軍だった為、家康にとって痛恨の事態になったのでした。
しかなく家康は秀忠軍を見限り合戦に打って出ることに決め、西軍を得意の野戦に引き込むため東軍の佐和山(佐和山城は三成の居城)経由の大坂進出を宣言します。これを受けた西軍は深夜に大垣城を出て畿内の入り口である関ヶ原に布陣して東軍を待ち構えます。対する東軍も福島正則を先頭に東軍が布陣を開始。両軍の布陣が完了したのは午前6時の早朝でした。

東軍約7万に対して西軍は約8万

その関ヶ原の布陣図は西軍が関ヶ原の山々に陣取って東軍を取り囲むように配されており、明治時代にこの布陣図を見た日本陸軍の軍事顧問メッケル参謀少佐(ドイツ帝国の参謀モルトケの懐刀であり、メッケルに直接教えを受けた学生に「坂の上の雲」の秋山好古がいる。)は西軍の勝利を信じて疑わなかったといいます。

時に1600915日早朝、関ヶ原は深い霧が立ち込めていました。

合戦は御前8時、先陣を約束された福島正則を尻目に抜け駆けした井伊直政・松平忠吉(家康4男)隊の銃撃によってはじまりました。
戦は福島正則・黒田長政・加藤嘉明・細川忠興・藤堂高虎・京極高知ら東軍の前線部隊が西軍の石田三成・宇喜多秀家・小西行長・大谷吉継の西軍諸隊に突撃し一進一退の攻防を繰り返しながら戦線は膠着します。
ここで西軍全軍が総攻撃を開始したのなら東軍の壊滅は必至だったはずです。ところが東軍が全軍ていっぱいで作戦展開しているのに対して、西軍は総大将たる毛利勢をはじめとする各部隊が合戦に参加せずに傍観を続けたのです。これは各部隊が家康の内通や各部隊との意思統率がとれずに全軍統率がなっていない為によるものでした。
そしてこの膠着状態を破る唯一の鍵となった部隊が西軍として右翼の松尾山に布陣していた小早川秀秋の軍勢15千でした。小早川秀秋この時19歳。

日本の命運を左右するこの関ヶ原の役のキャスティングボードは、あろうことか若干19歳の若者の手に握られたのです。 

小早川秀秋毛利勢の一翼を担う武将なのですが血縁的には豊臣秀吉に粛清された甥っ子の関白豊臣秀次の弟であり、毛利元就の三男小早川隆景の養子として送り込まれたため飼う方面で浮いた存在だったといわれています。関ヶ原勝利の暁に西軍の三成は時期関白就任・東軍の家康は所領の大幅加増を持ちかけられており、秀秋は迷いに迷っていました。
その時複数の砲弾が秀秋の本陣に着弾します。しびれを切らした徳川家康が出陣の催促に大砲をぶっ放したのです。 
これによって小早川秀秋は東軍に寝返り真下の大谷吉継隊をはじめとする西軍書体に襲い掛かります。秀秋の寝がえりをきっかけに傍観していた各部隊も一斉に寝返り、午後2時に西軍は総崩れになって敗走し東軍の圧勝。関ヶ原は開戦からわずか6時間後で劇的な結末を迎えたのでした。合戦の戦死者は両軍合わせて8千人に及んだということです。 

この合戦の処理によって家康の天下が確定し、敗走した石田三成は捕えられ斬首になります。その立役者となった小早川秀秋は倍近い加増を受け岡山51万国の大大名となります。しかし明智光秀に匹敵する裏切り者のレッテルを貼られて精神を病み2年後に狂死し小早川家は断絶するに至ります。

 天下を左右する日本史上最大級の戦乱でありながら、11年続いた応仁の乱に比べて役全体で34カ月、本戦は6時間で勝敗が決したのは驚異的です。これこそ歴史の面白さなんでしょうね。


 関ヶ原合戦舞台の作品
・大河ドラマ
「葵 徳川三代」…戦役全体像を把握することができます。
「功名が辻」…関ヶ原で東西どちら付くかで苦悩する諸大名が描かれます。
 

「関ヶ原」…司馬遼太郎の小説にした民放のドラマ。民放作品として超大作です。 

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2012/09/16 18:23
吉乃様へ…この人は確かに気の毒ですよね。兄貴の豊臣秀次は秀吉鶴の一声同然に処刑されますし、自身も秀吉の一声で縁も縁もないない小早川家に押し込まれたり、三成にいろいろかき回されたり、挙句敵味方問わず裏切り者呼ばわりされてしまうのですからたまったものではないですよね。
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2012/09/16 10:58
小早川秀秋って裏切ったというより利用された感が強いのよね
気が小さいのに付け入られたのね~お気の毒としか言いようがないわね
亡くなったのは暗殺だとかいろいろ言われるけど、どうなんだろうね
何時の時代も政治っていやあね~
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2012/09/15 19:26
ペッチ様へ…調べてみたのですが小早川毅彦選手の小早川家は明治になって毛利長州藩主家が分家して再興したらしく、小早川秀秋との血縁はないそうです。
それにしても裏切りの象徴とされる小早川秀秋の家が再興してることに驚きました!!
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2012/09/15 19:15
小早川秀秋、関ヶ原からわずか2年後に亡くなってるんですよね。
このあたり、いろいろと想像が膨らみます。
そういえば、元広島カープの小早川毅彦選手(現野球解説者)は、小早川氏の子孫ですよ。




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