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つくしのつれづれノート


奇襲!厳島合戦

今日10月16日は毛利元就が陶晴賢を破った厳島合戦の起こったその日に当たります。1555年10月16日(天文24年10月1日)に行われたこの厳島合戦は織田信長の桶狭間合戦・北条氏康の川越夜戦と共に戦国の三大奇襲と呼ばれ、この合戦の勝利によって毛利元就は中国の覇者への大きな一歩を踏み出します。

この合戦の経緯は防長二国の大名・大内義隆をクーデターで滅ぼして大内氏を乗っ取った陶晴賢がクーデターの為に手を結んでいた毛利元就と対立した事に始まります。
当時元就は安芸の中小領主として大大名・大内と尼子の間を右往左往している立場であり、この状態からの脱却を図る為に元就は陶晴賢と手を組んでいたわけです。その陶晴賢に締め付けられた為元就は陶晴賢に立ち向かうことになります。
とはいえ立ち向かう相手として陶晴賢はあまりも巨大過ぎるうえに、背後には元就をさんざん苦しめた出雲の大国尼子氏がいるという最悪な状況…
元就はこの苦境を覆す為に智謀の限りをつくします。

当時尼子氏は本家分家の派閥対立があったのですが、元就は裏で手を引いてこの対立をを内乱に発展させて安芸への軍事介入をシャットアウトさせてしまったのです。その間に元就は安芸の陶晴賢勢力を切り崩していきます。
しかしそれでも毛利軍4千に対して陶軍2万以上でありまともに戦って勝てる相手ではない…
そこで元就はさらなる秘策でもって陶軍撃破にかかります。

元就は厳島神社の隣に砦(宮尾城)を築いて厳島を占領します。今でこそ日本三景・世界遺産という一大観光地となっている厳島ですが、当時は博多~堺へ向けた瀬戸内海の流通の中継拠点として大繁栄した経済都市であり(まさに瀬戸内海は厳島神社を築いた平清盛の経済構想通りに機能していたのです。)、ここを奪われた損失はあまりに大きい為陶軍は厳島に上陸し、大軍でもって砦を包囲します。しかしこの砦は狭くて大軍が身動きが取れない厳島に陶軍をおびき寄せる為の餌だったのです。
やがて元就率いる毛利軍が安芸沿岸の草津城に入城。その後に村上水軍が毛利方に駆け付け海を隔てて4千の毛利軍と2万の陶軍が対峙します。

10月15日、その日は嵐で海は荒れ狂っておりました。しかし元就はこの嵐を逆手にとって船を出して奇襲作戦に乗り出したのです。毛利軍は舞台を二つに分けて元就率いる本隊は厳島の裏手に上陸しました。上陸後のってきた船を引き払って背水の陣に臨み、厳島神社の裏山に布陣、一方の元就3男小早川隆景率いる別働隊は陶軍が布陣している厳島正面を嵐に紛れて上陸し、包囲された砦の守備隊と合流します。
陶軍は嵐の中の攻撃はあり得ないと油断して眠りこけてました…

そして翌10月16日。夜明けとともに毛利本隊と別働隊は2万の陶軍を挟み撃ちにして一気に奇襲をしかけました。陶軍は市街地のある狭い空間に2万の大軍がはめ込まれた状態だったために身動きが取れず、寝耳に水の奇襲で大混乱に陥ります。しかも敗走しようにも海は村上水軍によって封鎖されている為逃げられない!!
結果陶軍は制圧され、大将・陶晴賢は自刃。毛利元就は大勝利を収めます。

この結果大内氏の屋台骨がガタガタになり、元就は勢いに乗じて一気に大内領を組み込んで安芸・長門・周防の3ヶ国の大大名に上り詰めます。中小領主の国人の過ぎなかった毛利元就の大躍進のスピードは戦国史上の驚異ともいえます。

以上が厳島合戦の基本的な概要になります。ところが…
この厳島合戦の記録は毛利家によって作成された「陰徳太平記」飲みに記されているほかは皆無といってよく、実像とかけ離れている可能性が高いのだそうです。
この手の話は川中島合戦をはじめ各時代のどの合戦についてもよく言われているのですが、この厳島合戦はその中でも群を抜いているかもしれません。
説によっては厳島合戦は陶晴賢と村上水軍の合戦で毛利軍は参戦しておらず
元就はそのすきをついて防長を攻めとって漁夫の利を得たのだというものがあります。

実像がよくわかってないので何とも言えないのですが仮にそうだとしても、まったくの不関与で大躍進することはあり得ない為、地味ながらも少ない犠牲で大成功に導いた智将として評価は従来より上がるかもしれません。

いずれにせよ厳島合戦で大躍進を遂げた毛利元就。
しかし、彼の快進撃はまだ序章に過ぎなかったのだ…
(続きを期待するような書き方で申し訳ありませんが、この先は厳島合戦に比べて地味な為特に書く予定は未定…(苦笑))





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